日蝕_前編

鏡を見る時、見つめ返しているのは反転した虚像で自分自身ではない。では此処に映っているのは、誰だ?

 

それはいつから彼女の部屋にあったのか、思い出せなかった。彼女の部屋は貴族の居室にしては簡素だったが、それでも年代を重ねた調度品の数々は、手入れと共に時折入れ替わっていた。
そして“それ”は、居間の卓の上、花入れや燭台に隠れるように置かれていた。

いつからこんなものがあったのだろう?円形の黒い石が、蔦のように絡む金属で囲まれている。背面には金具があり、立てかけられるようになっていた。形としては、額縁ではなく鏡に近い。しかしその表面は黒く光り、ガラスで光を反射し、煌びやかな光景を映し出す鏡とは全く違う。
以前からあったものではない。彼女の居室はもう何度も、数えきれないくらいの時間過ごした。見過ごしていただけかもしれないが、全く記憶にないのも妙に思え、それを覗き込んでみた。

よく見れば、石には所々小さな筋が入っているが、表面は鋭利なまでに真っ直ぐだ。おそらくは、大きな一枚岩を石目に沿って割ったものだろう。似たような物は、時折見かける。黒曜石を切り出したコンソール。陶器を置けば、黒い表面に白地の影が映り美しい。しかし“それ”は何かが違う気がした。
外はもう陽が傾いていたが、室内が暗いわけではない。にも関わらず、石の表面に映る己の顔は奇妙に沈みこみ、石の色と溶け合っているかのようだ。

彼女はよく、黒い瞳の色を黒曜石に例えていた。昔、海辺の別荘に行くと、浜の周囲に黒く光る石があった。興味本位に拾うと、時折指を刺された。欠けた石の断面は鋭く、子どもの柔らかな指先など容易く切り裂く。それでも彼女は、南の熱い太陽に石をかざし“お前の瞳みたいだ、こんなに黒くて煌いている”そう言って微笑んだ。その言葉に込められた賛美と、彼女の人差し指の先に滲んだ赤い血の小さな点に心奪われた。

思えばもう、あの頃からだったのかもしれない。心と目を根こそぎ奪う者。どれほど目を逸らし逃げようと思っても、その金糸が陽に透けるだけで、軍靴の軽い足音が響くだけで、縛られたように動けなくなる。

石の表面に指を這わせた。ガラスのように滑らかではなく、今にも小さな棘が指先に刺さりそうだ。人に造られたのではなくて、長い年月に埋もれ圧縮され凝固した天然の結晶。小さく切り出され飾り立てられたとしても、その本性は野生だ。指だけでなく、掌全体をあててみる。黒く冷たい石のはずが、微かに温度も感じる。
__生きている?
浮かんだ考えを自分で笑った。地熱を溜め放出が緩いため、岩は暖かい。切り出された石も、多分似たようなものだろう。触れた自身の熱が、思いの外暖かく感じただけだ。これほど黒い、闇に近い石なら温度など感じないはずだと思っていたから。闇に・・近い。

石から手を離さないまま、表面の自分の影を見つめる。黒い髪、黒い瞳。だから石と溶け合ってしまう。置いたままの手も、次第に石の中に沈み込み、その表面の裏側へ吸い込まれる・・・このまま・・見つめていれば。

その時、弦が弾ける音がして、唐突に音楽が途切れた。振り向くと、彼女が弦の切れたバイオリンを手に呆然としている。
「弦が・・急に」
白い手の甲に、血の滲んだ赤い痕がついていた。傷ついた手を取り、取り出した布で血を抑える。細い指先、珊瑚色の爪。その傷を唇で癒したい。顔を近づけ、尊敬と欲望のキスを白い手に。あの男のように。

指先に力が籠められるのを、かろうじて押しとどめた。手を取り抱き寄せ、そして、またあの時を繰り返すのか。頬を伝う涙に打たれ、もう決してしないと誓った、あの。
彼女の誇りと信頼を力で壊そうとした。その横暴は、彼女を結婚という枠に押し込めようとする、当主と変わらない。男という力は簡単に彼女を組み伏せられるのだ。その浅ましさと愚かさは、心胆を凍らせた。

しかし、このまま黙って彼女の傍にいられるだろうか。黒い石のように重い自制の蓋は、もうひび割れている。あともうひと突き、僅かな衝撃で石は崩れ、無数の鋭利な欠片となって、彼女を切り裂く。

その昔、黒曜石の欠片は武器として使われた。獲物を仕止め、喉を裂いて血を抜いた。刃先は血を滴らせ、犠牲の断末を映す。それは兎だったのか獰猛な獣か、それとも・・愛する者の最期の表情か。

「・・アンドレ?」
声に我に返った。手を取ったまま動かなくなった男を訝しむ、彼女の視線。揺らめく青い瞳の中に、微かな怯えがあった。

__オスカル、俺を怖れるお前は正しい。闇は光を生まないが、光は闇を作る。お前がいる限り俺は影としてあり、決して離れることはできないのだろう。ならば・・取れる手段はただひとつ。

 

硬くこわばった手の力を緩め、布を彼女の手に巻き付けた。うっすらと滲む、赤い血の痕が見えないように。それから、笑みを浮かべ静かに部屋を出ていく。陽が落ち暗くなっていく部屋の中で、彼女がいつまでも閉められた扉を見つめていたことを、知る由もなかった。

 

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