日蝕_後編

鏡を見つめるとき虚像も見つめ返す。己の右手と鏡の左手。隔てられた表裏の境界は、脆い。

 

昔、見かけたことがあったような気がする。一度心に浮かぶと、忘れることが出来なかった。侍女に頼み、埃だらけの“それ”が、屋根裏から降ろされて磨かれ、居室に置かれた。

__このような形だっただろうか。
彼がこの館に来て間もない頃、よく二人で屋敷の中を探索した。使われていない客間、鏡の裏の通路、書棚の奥の秘密の引き出し。その中には宝が幾つも眠っていた。子どもの眼でしか見つけられない、様々な物たち。殊に、屋根裏は素晴らしかった。埃まみれになって叱責されたこともあったが、二人で幾度となく、軋んだ急な階段を上がっていった。

多分その時に見つけたのだ。埃に白くなっていたので、何かわからない。掌で拭うと、黒い表面が現れた。その色は、くすんだ天窓から差し込む光すら吸い込むほどに、黒い。もっと拭おうとしたが彼に止められた。袖が埃で黒ずんでいたら、彼の祖母は決して見逃しはしない。

どうして、今になって思い出したのだろう。あれは黒曜石だった。その鉱物の名前を知ったのは、後になって訪れた海辺の別荘。浜の様々な貝殻、流木、打ちあげられた魚の骨。珍しかったのは、朽ちた船の舳先で。その竜骨は誇り高く空へ突き出していた。それを見上げながら、船の辿ったであろう数々の冒険を語り合った。そして竜骨の下に、黒く点々としたものが落ちているのに気付いた。拾い上げるとそれは石だったが、波に洗われた丸い形ではなく、魅惑的に尖っていた。切り出された矢じりのようにも、小人の使う剣のようにも見える欠片。魅了され手が傷つくのも構わず、掲げて陽にかざした。彼の瞳のようだと思ったのだ。深く、黒くて美しい。

記憶の蓋は次から次へと開く。春から夏へ変わる時期、彼が乗ってくるはずの馬車を、館の二階の窓でずっと待っていたこと。幼い頃彼は剣が弱く、背も低かったこと。いつの間にか、彼の方が見下ろしていた。いつから?
いつからだろう、彼の眼の中にあるものに気づいた。何気なく振り返ったとき彼が眩しいものでも見るような眼をして。でも悲しげだった。その感情を知っている、知っていて・・。
知らないふりをした。他の男性を愛した。だから拒んだ。

だから・・だから。今この時、お前の眼を見るのが怖い。届かない想い、愛し返されない悲しみ。かつて味わった苦痛を、他ならぬ私が彼に与えている。お前は静かに微笑んでいるけれど、その黒い窓はかたく閉ざされてしまった。

頭を振って、卓の上にひっそり置かれた“それ”を手に取る。ずっしりと重い。石を囲んでいる金属は、蔦のような絡む曲線が鋳出されていた。そしてその、石の表面。
もう陽は落ちていたので、部屋は暗い。蝋燭の微かな灯りで、かろうじて黒い面が見える。映るのはぼんやりとした白い影。常ある鏡のように、くっきりと反射したりはしない。それでも見つめていると、次第に見慣れたはずの己の顔が見えてくる。指先で映る顔の輪郭をなぞる。額、眉、眼、そして唇。かつて触れ合った彼の唇は、熱く柔らかかった。

幼い時から今まで、記憶の中の全てに彼がいた。彼に出会う前の記憶はもう、余りに微かだ。ずっと、共に歩いていくのだと思っていた。でもこれからは道が分たれる。身分の差以上に彼との間に新たに築かれる高い障壁。物語の彼らのように、伸ばせば手が届くのに決して触れられない。彼の唇の熱さを感じることも、二度と、ない。石に顔を近づけ、自身の唇を合わせてみた。海辺でかざしてみたあの欠片は、あんなにも美しく煌めいたのに。同じ石がこれほどに、冷たく、暗く硬い。

あの時、弦が弾けた時、私の手を取る彼の掌があまりに冷たかったので、思わず眼を覗きこんだ。冷たく閉ざされてしまった彼の瞳。そうしたのは私だ。暖かい手を煌いていた瞳を、黒い石の中に閉じ込めてしまった。

黒い鏡の虚像を見つめる。彼の目に映る私はこのように見えているのだろうか。愛を拒絶する白い影。
「・・・アンドレ」
鏡は答えない、冷たい。
「オスカル・・」
振り返ると彼が立っている。
「ワインを、持ってきた」
「ああ・・」

彼が慣れた手つきでワインを注ぐ。水滴の落ちる音だけがする。グラスを手渡す彼の指先が氷のように冷たい。私は彼の瞳を見返したが、彼が見ているのは卓の上の鏡だった。私も“それ”を見る。燻ぶった金属の飾りが、鈍い光を反射している。
黒い石に映るふたり。背後の彼の手が私の肩に置かれ、黒曜石の瞳は露で濡れている。やがて瞳の色は石に溶けて混じり、白く浮かび上がる私を侵食していく。

ああ、判った。

グラスが手から離れた。割れたガラスが乾いた音をたてる。倒れかかる身体を彼が抱きとめる。俺もすぐに行くから。かけられる声が遠い。

 

そうか、お前が私を殺すのか。私がお前を捕らえたから——私が愛したから、お前が私を殺す、この時。この為に私達は出会った。あの鏡、あれは太陽を殺す影なのだ。生命の源を暗闇が覆い隠し、末期の光が影の周囲から消えようとしている。太陽が消える・・彼の黒い瞳の中に吸い込まれ、永遠の闇がやってくる。

私を殺すお前。私の愛する男、ただ一人の恋人。最後の力でお前に手を伸ばそう、キスをしよう・・お前が私を見ている、瞳の中に私が映っている、そして私達を鏡が映し出している。

愛しているよ、愛しい黒曜石の瞳のお前を。できればどうか、ほんの少しでも待たせないで・・待っている・・・待っているから。

 

 

 

二人が倒れ、動かなくなると、ごとりと重い音を立て、黒い鏡が床に落ちた。縁の金属が跳ね返り、卓の脚にあたる。衝撃で石はひび割れ、欠片が散らばった。砕けた石はもう、何も・・・映していなかった。

 

 

END

 

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