陽炎-2

「・・出動命令が、出た」
顔が青白いのは、夏の弱い月光のせいじゃない。二人とも分かっていた。これは堤が崩れる音だと。
数日前、彼女は王妃に謁見した。その夜、新月の暗い部屋で彼女が言った。
「もう・・誰にも流れは止められない。王でさえ。むろん、私にも」

寝台横の蝋燭はとうに消え、もとより彼女の顔は見えない。しかし声の表情はわかる。悲嘆と苦しみ、微かな怯え。この夏、いっそう細くなった腕を俺の背中に縋り付くように回す。重ねてくる唇も震えている。俺の肩を掴んだ指先が食いこむ。
「そばにいてくれ・・何処へもいかないと」
見下ろしながら身体を揺らす行為の激しさと逆に、その声は呟くように細かった。

夜半、眠りの深いはずの彼女が、背中を小刻みに震わせて咳き込む。そっと手を重ねると、俺の掌も赤くなる。ついた血はぬるい。彼女は俺を見上げたまま黙っている。
知っているのか?と問う眼に頷き、包むように抱きしめた。震えているのは喀血ではなく、恐れの為だ。遺していきたくない、遺されたくはない。失って、どうして生きていけるだろう。
「死ぬまで・・・傍にいるよ」
抱きしめる、肩も指も細い。ぐったりと身体を寄せて、眼を閉じた彼女の耳元に囁いた言葉は聞こえただろうか。そばにいること、見つめ続けること。決してそれだけは違えないと決めたのは、いつだったか。

彼女が他の男を愛していると気づいた時、彼女を傷つけた時、離れようと思った。これ以上、そばにいるべきじゃ無い。このままでは彼女を苦しめる。苦しめたくはない、幸福でいてほしい。それが俺と離れる人生・・だったとしても。
だが彼女は俺の過ち、危うさを許した。どこまでも受け入れ続けた。――お前にそばにいてほしい。そのひと言で、決して俺からは離れないと、決めた。

浅い眠りについた彼女の、額にかかった髪を払う。そっと、触れるように左胸に耳をあてる。規則正しい鼓動と、冬の風のような、乾いた音がする。
無理やり連れ去って、彼女に憎まれようと罵倒されようと、安全な場所へ閉じ込めようか。それとも請えば、何処か静かな場所で暮らすと言ってくれるだろうか。そう願わないわけではない。残された時間が限られるなら、尚更。
でも、彼女の背中を見てきたから知っている。彼女は戦うために生きている。

 

俺が見つめていた長い長い間、彼女は戦っていた。幼い腕には重すぎる剣を振るい、男達に混じって銃を撃つ。細い肩にその振動は骨に響いたろう。羨望と好奇の眼差し、扇の影で密やかに交わされる言葉。その一切に頓着せず、髪をなびかせ陽の光の下を歩むのも戦いだった。
衛兵隊に移ってからは、戦い方が変わった。夜に傾けるワインの味わいさえ、変わってしまった。葡萄を摘むことも、樽を作るのでもなく、ただ座してワインを味わえる貴族という出自、育まれてきた環境。これまで自身を形成してきた全てのものと、対峙しなければならなかった。
「・・私は此処にいるべきか。私を守ってきた揺籃の中に、留まるべきか?」
傍らの俺に問うのではなく、幾晩も自分に問いかけていた。

「・・・ん・・」
寝返りを打つ彼女が何か言ったかもしれない。夜着のはだけた肩に口づけして、上掛けをかける。夏とは言え、明け方近くの大気は冷たい。
―――お前の答えは出たのだろうか。そして、それは・・・。

 

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