赤い唇 黒い髪

「薔薇の蕾・・」

独り言のように呟いた彼に、問うような視線を投げる。館からほど近い丘。周囲に野薔薇が揺れているが、花は終わり蕾などない晩夏だった。
「いや、なんでもないんだ」
そう答える彼の横顔は、俯いて考え込んでいる。私はつと手を伸ばして、彼の右頬に触れた。彼が私の隣にいるときはいつも左。潰れた左眼を私に見せないようにしている。勤務の隙間を縫うように僅かの時間、こうして二人でいる時さえも。

彼は私の手を取り、少し寂し気に微笑みながら抱きしめてくれる。心地よい身体の重みが重なって、私の視界は彼の肩と空の青だけになる。
横たわり抱き合ったまま、私たちは黙っていた。夏の終わり、雲は薄く高い。蜂が羽音を立てて飛び回る。どこかで虫の声。背中にあたる白詰草のひんやりとした感触。ふいに私の頬が濡れていることに気づいた。彼の涙で濡れている。

「思い出したんだ。昔・・母が倒れた時。熱にうなされ、もう殆ど言葉が出せなかったのに。ただひと言」
「薔薇の蕾と?」
「そう言って、ふっと微笑んだ。それからもう、声を出すことも目を開けることも、なかった」
私の胸に顔を埋めて彼は泣く。私の胸は濡れ、彼の湿った黒い髪を指で梳く。
「夏じゃなかった、家にも外にも薔薇などなかった。どうしてなんだろう、あの時。母が本当に幸福そうに微笑んだのは」

私は答えを知っている。彼の母は蕾に手を伸ばしたのだ。力なく握った掌の中に、確かに薔薇の蕾があることを感じて、幸福だったのだと。

私の背中に回された腕に力が込められる。
「母は静かに微笑んだまま動かず、赤かった唇が白くなっていった。髪も表情も何ひとつ変わらないのに、唇だけが」
震えている彼の、柔らかい髪を撫でる。母に似たという黒髪。
「アンドレ・・」
彼の手を取り、私の唇に指先をあてさせる。その手は冷たかった。
「私の唇は熱い?」
「ああ」
「赤い?」
「柘榴の実のようだ」
「私は・・お前をおいて逝ったりしない」

深く口づけして、私たちは抱き合う。見上げる晩夏の空が薄く青い。ふと横を見ると、茂みの隅に小さな赤い色彩があった。彼も気づいて、その小さな赤いものを手に取った。

「薔薇の・・・蕾」