片目の鳥

例えば、猫。

彼、あるいは彼女の前に鏡を置いてみる。殆ど興味を示さないか、何か動くものとしてしか見ないだろう。誰かの不注意で籠から逃げた鳥。ガラスに映る己の姿など気にかけず、外へと羽ばたこうとして墜落するだろう。
赤ん坊は?ぼんやりとした視界が定まってくると、目の前に白いものがあることに気づく。母の顔、あるいは乳房、繰り返し動くものが自分の手だとはまだ気づかない。やがて白いものの中で、光を反射し濡れている箇所に気づく。母の、瞳。赤子は手を動かすのをやめ、その黒い、青い、茶色の、灰色に映るものを、じっと見つめる。それが己であることは知らずとも、母の中に何かがいて、見つめ返していることを、知る。

 

――振り返るのが、怖い。
兵舎の廊下を歩いている時。ふと所用を思い出して立ち止まり、彼に話しかけようと振り返る。夕方、傾いた陽が彼の右側から差し込んでいて、右眼が深い黒ではなく、緑がかって見えた。声をかけようとして、その眼の中に私が映っているのに気付いた。私はそのまま声が出せず、怪訝そうに見ている彼に背を向けた。夕陽が廊下に二人の影を長く落としていた。

またある時、午後の司令官室。ペンを走らせる私の向こうで、彼がまとめた書類に目を落としている。何気なくペンを止めて、俯いて隠れている彼の横顔を見た。書類をめくる渇いた音、左側にかかる前髪を払う彼の仕草。放心して見ている私に気づき、彼が顔を上げる。目が合う寸前、私はペンを取り落とし、インクが血のように散らばる。

「オスカル・・」
咳きこみ、額に汗を滲ませている私に彼が手を伸ばす。ひんやりとした掌が私の頬にあたる。
「熱が」
彼はすぐ傍で私を見ているが、私は手で口を覆い下を向いたままだ。
「だ・・いじょうぶだ。少し、疲れて」
見なくてもわかる、彼は眉を寄せ、青白くなった私の顔色を不安げに見ている。掌はまだ私の肩にある。
「薬湯を持ってくる、すぐに休め」
彼が部屋から出ていく。私はその背中を目で追う。彼が私を見ていない時だけ、私は彼を見つめる。

まだ幼い時だった。私たちは森にいて小川で水を飲んでいた。ふと顔上げて彼を見ると黒い瞳の中に私が映っていた。これまで何度も誰かの瞳に私が見えていたはずなのに、その時初めて誰かの中に私がいると言うことに気づいたのだ。それは私をひどく落ち着かなくさせた。慌てて立ち上がり、呼び止める彼の声に聞こえないふりをして馬に飛び乗る。私が彼の瞳の中にあることが、何か重大な秘密のように思えた。

―――鏡の中に、誰かの瞳に、映っているのが己だと知るのは人間だけ。鏡像は己でありながら、己そのものではない。私は誰かの眼に映り、誰かは私の瞳に映る、無限に続く合わせ鏡。

「アンドレ・グランディエが失明するのは時間の問題です」
医者から告げられた自身の命の短さより、彼の眼のことの衝撃が大きかった。確かめるように手すりを持ちながら、階段を降りる彼。扉から入ってきて椅子の前まで、歩幅を変えない彼。振り返った時、私を見ると同時に何処か遠くを見ている、あの茫洋とした瞳を。何故気づかなかった。

「アンドレ・・」
私の呼びかけに彼が振り返る。夏の夜、彼はシャツの襟をはだけ、ひとときだけの寛いだ表情になる。黒い瞳が揺れ、頬に笑みが浮かぶ。優しい微笑み、暖かい声。決して失いたくない、失わせてはいけない。

私は彼に近づき、見上げるように彼の瞳を見つめる。私が映っている。私は彼の瞳の中にいる。今この瞬間も見えてはいないかもしれない。それでも私がそこに映るなら、私は彼の瞳を守る。彼が沈黙したまま守ろうとしたもの。それは私のそばにいること、私と共に生きること、私を―――見えていない瞳の中に映すこと。

 

私をお前の瞳の中に映して。決して消さないで、閉じないで。眠るときでさえ、瞼の裏に夢の私を映していて。残された瞳は私が必ず守るから。

 

硝煙の匂い、大砲の音、崩れ落ちる塔の噴煙、人々の怒号、地上に怒りが渦巻いている。その煙の渦の中に一瞬、真夏の光が差し込む。見上げると、空の片隅を白い鳥が飛ぶ。今、見上げる私の瞳の中に、あの鳥がいる。アンドレ・・私もお前を瞳に入れている、決して消さない、失わせない。
「隊長!バスティーユが、塔が落ちます」
全ての音が遠くなる中、鳥の羽ばたくかすかな羽音。私はもう一度眼を開く。切り取られた空の片隅、鳥が・・・。
「白旗だ。勝った・・のか、俺たちが」
彼が振り返る・・・微笑んでいる。お前が私の中にいるように、私も・・・・・お前の。

 

瞳の中に、いる。