錠 あるいは閂 ー後編

「この月桂樹の葉を身につけよう。我々の手でパリを守るのだ。人は皆平等なのだから、我等の上に君臨し、我らを虐殺しようとする王は必要ない!」
広場では鎌や鍬など、粗末な武器を手にした民衆が演説に熱狂している。
「ベルナールを逃したことに後悔はしていないか」
広場の隅に停めた馬車で向かいに座った彼が問う。
――あの男を見逃してほしい。彼なら民衆のために何かをする。
自身の目を潰した相手を逃がせと言った彼。まだ左眼の痛みすら引いていない時に。
「・・お前の判断は正しかった。あの男が体現しているものは、処罰したとしても消えはしない」
演説者のひとりひとりを潰しても、広場に集まる群衆を軍が蹴散らしたとしても、人の胸に宿った火は消せない。彼にはもうあの時、潰れた左眼でこの光景が見えていたのだろう。
「武器をとれ、市民諸君。今こそ力を合わせる時だ!!」
地を揺らすほどの歓声。私は眼を閉じ、怒りを含んだその声を、彼らの熱を体で感じていた。
「・・オスカル」
彼が手を伸ばして、私の青白くなった手を取った。右眼は気遣わしげに私を見ている。まだ見えているのだろうか。お前の眼は、私を映すことが・・。

「・・館へ戻ろう、今日はアルマン氏が来る」
「完成したのか」
「ああ」
おそらくは、私の最後の肖像画。残しておきたいと思ったのは、何故だったのだろう。
「きっと、素晴らしい絵になっている」
そう断言する彼の眼は、窓の外を見ていた。傾く夏の陽が、彼の横顔を染めていた。

―――絵は未来に届くものです。私や貴方様が塵に還ったあとでも、未来のどこかへ。
画家はそう言って絵を残していった。塵に還る・・鋭い観察者の眼は、私の病も見抜いていたのだろうか。彼は壁にかけられた絵の正面に立ち、黙って見上げている。白い壁に、傾く陽が赤く反射し、絵を浮かび上がらせている。
「この草原は・・アラスだ。初夏の、萌え出る若草。金髪を彩る月桂樹の冠さえ瑞々しい。白い蔓薔薇が咲き乱れて・・お前の香りと同じ。艶やかな戦いの女神が、花の中に・・」
陽は傾いてゆき、壁は燃えているように赤い。燃え盛る炎の中で、彼の見た初夏の風吹く絵だけが、清涼な別世界だった。国が滅んでも、私たちが消えてしまっても・・絵が残るなら。それがただ一つの希望ならば。
「・・アンドレ」
絵の中の女神は遠くを見ている。月桂樹の冠はかぶらず、荒野に剣を掲げて戦いの場に進もうとしていた。私は彼の左側に立って、手を取った。
「いつまでも・・愛している」
私はお前の左にいる。失わせた眼の代わりに。

 

「フランス衛兵隊、二個中隊は明後日。テュイルリー宮広場に向けて出動のこと」
その晩、私の喀血はシーツを赤く染めた。ぐったりした私を抱き寄せる彼の胸にも血がつく。
「・・これほどになるまで」
「お前こそ、眼は・・」
私達は沈黙した。もう瓦解は近いとわかっている。
「お前は、このまま私と共に生きるのか?」
「離れて生きられるとでも?」
「共にいる限り、私たちの恋はあの扉より外に出ない。閂で閉じ込められたままだ」
「本当にそうだろうか。人は平等だと広場で叫ばれている。それは平等でありたいという人々の願いだ。銃や大砲を前にしても、怯まなほど強い。もう堰は崩れてしまったんだ。この流れは止められない、何処へ向かうかはわからないけれど」
「そうか・・そうだな」

痛めつけられ血を流してまで戦う人々に背を向け、知らない国へ逃げて二人で生きることもできた。だが私はその道を選ばない。彼も私から離れない。私達はこの濁流に、否応なく飲み込まれていく。生き延びられるかわからない、それでも。

 

残り少ない私の命と彼の眼を捧げ、私は守ろう。人としての尊厳を、私達の愛の価値を。私達は生きる、最後の一瞬まで。

 

「・・アンドレ」
呼びかける私の声は細い。
「明日・・いや、今日。夜が明けたら、一日が始まれば・・・その時には」
それ以上言葉を続けられなかった。気を失うように彼の腕の中に倒れ込み、そのまま夜明けまで彼はそばに居てくれた、初めて。

夜が明ける。曙光に広がっていく空が青い。晴れわたり、暑い一日になる予感がする。朝、彼が部屋を出る時、閂を外した。私たちは扉の前でキスをし、微笑みあう。繋いだ掌の暖かさ。

 

「私は私に与えられた貴族の称号を全て捨てる」
軍服は変わらず重い。ちぎり取った勲章の重さはさほどでもなかったのだ。
「彼がただ一人私の夫だ。私達に身分という壁は、もう無い。人間は本来そのように生まれついたはずだ」
和達にもう閂も錠も要らない。愛も裏切りも、白日に晒され何ひとつ秘密はない。
「自由と、平等の為に!」
剣を抜く、大砲の目標を上に向ける。空が青く高く、片隅を白い鳥が横切っていく。
「砲撃開始!!」

 

アンドレ、いつか・・・未来で再び会おう。私たちの愛が、閂に閉じ込められることのない世界で。

 

 

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