錠 あるいは閂 ー中編

外は雨が降り出していた。夏だというのにひんやりとした冷気が部屋に篭る。ノックの音と共に入ってきた彼の手には温めたワイン。振り向きざま、扉に閂をかける。
「・・冬ではないぞ」
彼は私の頬に手を伸ばす。
「こんなに冷たい、せめて暖まるんだ」
帰り際馬車から降りるとき、身体が震えたことに気付いたのだろう。数年続く冷たい夏。穀物の値段は上がり、飢えた民衆の怒りは毎日肌で感じている。

彼の掌に頬を預け、次第に伝わってくる熱に浸っていた。人の手の暖かさが、なぜこれほどに苦しいのだろう。この温もりを片時でも離したくない。何者にも脅かされることなく、二人でやすらいでいたい。互いを失えば生きられないと知ってからは、愛と同じだけ不安が募る。彼だけが私の恋人、ただひとりの夫。しかし教会には祝福されず、口づけさえも密やかに交わす。漏れてはならない秘密。

―――――君の心に秘密があるなら。
秘密はある、だがこれは罪なのか。秘密は人を罪人にする。知られてはならないから秘め、秘めているから心が咎める。鍵で秘密を隠し、閂で愛を閉じ込める。どうして、ただ愛しただけで罪になるのだろうか。何故、私たちの愛は閉ざされなければならない?あの方の秘密の愛のように。

彼が閂をかけた扉。分厚く重い扉は密かな睦言さえも外に漏らさない。知られてはならない、気づかれ引き裂かれては生きていけない。それでも私はこの扉にかけられた閂が、

憎い。

 

「アンドレ・グランディエが失明するのは時間の問題です」
医師の言葉の意味がわからなかった。どこかで辞去の挨拶が聞こえても、自分の声とは思えない。どうやって辿り着いたのか、気づくと川辺にいた。夏の長い一日が終わり、一匹の蛍が川面に揺らめいていた。
薄曇りの日でも、時折眩しそうに目を伏せている。階段を降りるとき、手すりを辿りながら歩く。厩舎の暗がりの中、ひとつひとつ柵に触れて進む。いつから?どうやって?私に気づかれないよう、決して知られないように。

新月の暗い空を仰いだ。膝から崩れ落ち、地面を叩く。
「―――どうしてっ!!」
お願いです、私の残り少ない命などいらないから、彼に与えてください。彼こそが生きるべき人、彼は・・・お前はだけは幸福でいてほしい、微笑んでいて欲しい。ただそれだけなのに。

どうして、

 

どうして?

 

 

 

 

前へ 次へ