雨の日

棺に土がかけられる。老婦人が泣いている。神父の低い声が響き、花が埋もれ棺が埋もれ、やがてすっかり見えなくなる。人々はひとりまたひとりと去ってゆき、最後に彼女だけが残る。日が傾くと風が吹きはじめ雨が降り出す。細い肩を雨粒が叩く。その夜、月も星もない闇夜だった。雨は降り続いた。

 

___足音が聞こえる
兵舎の廊下を歩く足音。時折立ち止まり、振りかえる。彼女はしばし言葉を失い立ち尽くす。軍服の裾を翻して足音高く歩きだす。頬が一筋、濡れている。

______どうしてこんなに暗い?
兵と共にパリ市内を馬に乗って彼女が進む。見上げる民衆は、後ろ手に武器を隠し持っている。兵の何人かは、銃に弾をこめている。彼女は馬を止め、剣の柄に手をかけて民衆を睥睨する。人々は気圧されたように後ろへ下り、軍隊は広場を出ていく。憎悪の視線を背中に受けながら、彼女がふと空を見上げる。灰色の雲が一面に垂れ込め大気が重い。背後の広場で路地で兵を睨みつける人々の視線は、曇天よりも暗かった。

______暗い、寒い。何故こんなところにいるんだろう。この夏は寒かった。太陽は雲で覆われていた。それでも・・今これほどに冷たいはずはない。暗くて・・いつもそばにあったあの光が、無い。どうして。
夜、彼女がバイオリンを手にとる。一度切れた弦を取り替えた彼がいなくなってから、奏でることはなかった。彼が好んでいた古いソナタを弾いてみる。ほんの数小節・・音が途切れる。夜の窓に小さな雨粒が落ち始める。

_____光が、無い。無いのであれば失われたんだ。あの光、手を伸ばして伸ばして、掴みたかった。光そのものを手に入れることも抱きしめることも出来ないのに。青く透明な光も、夏の焦がれる太陽も、月さえも失った。もう決して・・・届かない。
屋根裏に近い部屋。背の高い彼には窮屈そうで、替えるよう彼女が提案したこともあったが。幼い頃からの大切な場所だからとそのままだった。彼女は黙ったまま、寝台に横になる。二人で星を見上げていた窓は小さくなった。星も月も見えず、ただ雨だけが窓を叩く。雨音以外何の音もしない。笑い合っていた子どもたちもいない。彼女は手を虚空に伸ばした。何かを掴むように握りしめたが、手の中には何もなかった。

_______暗すぎて何も見えない。音もしない。最後に聞いた声はなんだっただろう。棍棒を振り下ろす人々の罵声。この世界から出ていけという拒絶の。でもどこかに声が、必死に名前を呼んでいる、悲痛な声。あの声がいない。どこにいる? 
館の小さな礼拝堂で彼女が膝をついている。手を組み俯き、声に出さずに祈っている。丸めた背中が震えている。小糠雨が窓を濡らす。

___________どこにもいない。ただ暗く冷たく、冷え冷えとして重い。何故あの燃えさかる太陽のような金色の光がないのだろう。あの光・・あれがなければ・・・どこにあるんだ、ここへ来てくれ。ここは・・・寒すぎる。
彼女は立ち上がり、十字架にかけられた男を見上げている。俯いて礼拝堂を出ようとした瞬間、頭上で何かが裂ける音がした。咄嗟に身を翻す。鋭い破裂音と共に床に石膏が飛び散った。腐食した台座の上にあった聖人像が砕けている。彼女はその像の欠片を拾った。聖アンデレの右目だった。

_______潰れた左眼の裏に、うすぼんやりと白い像が浮かび上がる。眠りにつく前、いつも心に抱きながら眠った。次の朝には二度と見られないかもしれないから。その恐れも終わったんだ。
馬が走る。叩きつける雨を浴びながら、彼女はひとり疾走する。庭儀場の前は緊迫していた。軍隊と扉の前に集まった議員達の間に、叫びながら彼女が割って入った。ただひとりで身を挺しこの騒乱をおさめようとする。人々は驚き、気圧された。

______滅びるために生きたのだろうか。守るべきものを守り、身ひとつで渦巻く濁流を止めようと、自身の命を投げうって。その命が消え、後は暗闇だけだと知っていたとしても?
彼女が手に持っていたワイングラスが床に落ちた。赤褐色の絨毯の上に、染みが広がる。背を丸め、肩を振るわせて咳き込む彼女の手元から、血が滴り落ちる。荒い息を吐きながら、長椅子に横たわる。外の雨は止んでいたが、窓には水滴が流れている。彼女の頬にも。

______この骸はやがて朽ちる。木の棺も土に還る。それなのに、未だ、心だけが消えない。手に入れられなかった、届かなかった光。瞼の裏の像も、もはや薄れていく。記憶もなく魂もなくただ、光を追い求めていた心だけが・・この暗闇の中に。
父の刃を振り払い、彼女は館を後にした。生まれてからこれまでの記憶が満ちている場所。何より、彼と共に過ごした。柱ひとつにさえ、思い出が残されている。門を出て長く進み、一度だけ振り返った。いつも共にいた者、駒を並べて歩んでいた人がいないことを確かめるように。そして二度と振り返らなかった。霧が背後の館を隠していた。

 

オスカル________もうお前に会えない。生者と死者に分たれてしまった。愛されたかった、共に生きたかった。暖かい熱を腕の中に感じたかった。その願い、焦がれる想いが、憧出でてしまう。風になり雨になり、お前を求めて千里を彷徨う。死者の世界に終わりがないのなら、この想いも尽きることはないのだろう。どうかこの妄執に囚われず、お前は生きてくれ。風がお前を呼ぶ声に聞こえても、振り返らないでくれ。お前は俺の光だった、もがりの夜の向こうから遍く世界を照らす光。正しく影になった俺からの願いだ。どうか・・・・どうか、その光を消さないで。

 

その朝、遠く東の空から曙光が差し、空に雲ひとつない。冷たい雨の後に、何処までも晴れわたる空だった。青空の下、硝煙と土埃、地を揺らす大砲の音、群衆は叫び、砲弾で崩れた石壁へとなだれ込む。塔の上から放たれる銃弾に倒れる者もいたが、地を埋め尽くした人々は怯まない。
その只中で、彼女は一瞬空を見上げた。風が誰かを呼ぶ声に聞こえた。夏の風が高く吹き上がり、土埃の向こうに透明な夏の光と、白い鳥の影が見えた。

撃て!!号令と共に一斉に銃弾が降ってくる。肩に衝撃が走った。気づくまもなく、胸へ腹へ、背を丸め、庇うように胸に当てた腕にも弾が当たる。滑るように石畳に倒れ込んだ。

「・・・・アンドレ」

 

ようやく・・お前の名前を呼べる。バスティーユが落ちたと誰かが叫んでいるこの時に、命の火が消える時に、ようやく私を呼んでくれたから。探していたんだ、ずっと。お前の声が聞こえるのを待っていた、私を呼んでくれるのを。
この空の下の何処かにいるのだろう。だから走っていくよ、すぐに迎えに行く。お前が何処にいても、必ず見つけだす。だからもう、離れないで。私のそばにいて。二人で、いつまでも一緒に・・・いよう。アンド・・レ。

 

夏空は晴れわたっていた。川は流れ、魚が跳ね、空の片隅に二羽の番の鳥が掠めて飛んでいた。その夏、空はどこまでも、青い。

 

 

End