同人誌発売について(ご案内とお詫び)

先だってご案内しました怪物シリーズ同人誌発行は、諸事情により一月末(劇場版公開日前後)になりました。お待たせして申し訳ありません。入荷次第、BOOTHにて販売します。

それに先立ち「序章」「怪物」のみのプレリリース版を作りました。コミケにて頒布予定。BOOTHにも出品します。内容はサイトに載せたものと同じです(若干改定有)スピンオフペーパー付

 

表紙イラスト・挿絵 rdsさん

完全版は以下の二冊
前編:序章、怪物、愛の名において
後編:世界が明日終わるとしても、エピローグ
プレリリース版とは別のスピンオフがつくかもです(予定

 

アニばら語り オスカルが核であること

 

3)それでもオスカルが核であってもよかった

オスカルの核はアンドレ。しかし私はオスカル自身が核であっても良かったんじゃないかと思っています。

アンドレは貴族の元にいながら民衆側(被支配)でしたが、真の越境者はオスカルです。男女のどちらにも属しながら属さず、つねに境界にいます。支配階級に生まれながら、民衆側につきます。
このような思想運動において、外部の視点は内部崩壊を防ぐためにも必須です。自説のみに拘泥した運動はほぼ瓦解しますから、精神的核においても、越境者で双方の視点を持つオスカルを置くべきだったんじゃないかと思います。
監督はそのように考えなかったのか、1クール削られて単純に尺が足らなかったのか(ジャイアンツ戦滅せよw)わかりませんが。

いずれにせよ、フランス革命(普遍性)と全共闘(時代性)を融合した作品であり、歴史群像ドラマであったことは間違いありません。

 

以上、大変長くなりましたが、私のアニばら考察でした。お読みいただきありがとうございました。

 

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アニばら語り アンドレが核であること

 

2)アンドレが核であること

アラン達にとって、核はオスカル。そしてオスカルにとってはアンドレが核。アンドレが見ている新しい世界を示してほしい、それに「従う」なんです。男女の支配非支配ではなく、道を示すもの=アンドレ。という構図です。そしてなぜオスカルにとってアンドレが核だったのか。

前述したように、オスカルは広い視野を持っている人でした。ロザリーと再会した時、困窮する民衆とその強さ(アニメではロザリーはジャルジェ家に戻りません)を知りました。その後アンドレの左目が失われ、オスカルは彼の目が見ている世界を意識したでしょう。
そして失明させたベルナールをアンドレが許すように言った時。オスカルはアンドレと自分の見ている世界が違うと気づきました。衛兵隊に移ったのは私を捨て義に生きるためでしたが、そこで命を担保に軍に入った兵士の現状も知ります。

身分制度の歪み、王政のゆらぎ、民衆の怒りとエネルギーを感じた。その時オスカルはアンドレならどう見ているだろうと考えた。彼の失った左目。不自由でないはずはありません。それでも傷つけたものを許せと、ベルナールは盗賊じゃない、民衆の代弁者だと。オスカルは自分とアンドレ、複眼でみることで時代の歪み、方向性を知っていった。

12日の夜、アンドレは全て受け入れたうえで、前を向いていた。彼らの愛が阻まれない、人が身分で差別されない、そういう時代が来ることを望んでいた。その時オスカルは、アンドレがずっと自分の深いところで核であったことに気づいたんです。
だから、お前が見ている道に「従う」なんです。

 

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アニばら語り アニメの時代背景 

1)アニメの時代背景

前述したように、原作とアニメの背景には六十〜七十年代初頭までの全共闘があります。私はアニばらは全共闘への鎮魂だと考えています。革命を求め、崩れて消えたあの時代への。

監督があの運動に対してどのようなスタンスだったかは分かりません。しかし七十年代が終わろうとする時、フランス革命を題材にしたアニメを作るにあたって、全共闘の空気はまだ身近だったでしょう。

後半アンドレ絡みで出てくるエピソード。アンドレが自身の目を傷つけたベルナールを許したこと、ベルナールがアンドレに民衆側につく人間だと言ったこと、衛兵隊が民衆側についた時ベルナールが擁護したこと。他にはベルナールとロベスピエールとの対立、等々。
その世代にとって、このようなエピソードはフランス革命というより全共闘運動のそれです。全共闘運動には様々なセクトがあり、その支柱となる言説なり人物なりが精神的核でした。

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アニばら語り オスカルの7月14日

全て終わった、遅すぎた。打ちのめされたオスカルは民衆の声で目覚めます。朦朧として目覚めた先にアンドレが立っていた。
オスカルにはまだ公と義が残っていて、そして何より大切な私=愛する心、消えていませんでした。アンドレの幻を見るほど。

私はまだ生きている、戦える。生きる為に戦え。彼が望んだ、死の間際まで見ていた新しい世界を手にする為に。私が彼を想い信じている限り、彼はきっとそばにいる、今までずっとそうであったように。公も義も愛する心も全て私だ。

オスカルの物語はここで終わります。

 

アニメ後半について、特に37話以降について全然語り足りませんが、語り尽くせないんですよね。そもそも語れるなら二次小説書いてない。語りたいことはSS等で書いていますので、良かったら読んでみてください。諸々含めて数百本あるけど笑

 

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アニばら語り オスカルの愛する心

オスカルの私(わたくし)とは、深いところで人を愛する心でした。

私的に原作とアニメの最大の違い。原作では「遅すぎなくてよかった」アニメでは「気づくのが遅すぎた」この違いは?

アニメオスカルは常に公・義を表にしています。ロザリーや王太子に対してなど柔らかく暖かな心を出す時もありますが、自身の愛する心は深く秘めます。フェルゼンに対しては王家を守る義に反するから。アンドレには傷つけたくない守りたいという気持ちから、秘めてしまう。
しかしアンドレを愛し幸福になることを自分に許した時、ようやく言葉にすることができました。それほどオスカルにとって、愛する気持ちは深く熱いものだったんです。しかしそのアンドレを失った。

「ずっと愛していたのに気づくのが遅すぎた」
オスカルの心の一番深いところに、アンドレと築いた信頼と長い年月がありました。失ってからその年月を振り返った時、いつも彼が心の底にあり、その瞬間全て愛していたと気づいたんです。
あの時も、あの時も、愛していたのに。いまその人はいない。どうして、もっと早く気づかなかったのか!泣き叫んでもその人はかえらない。だから「遅すぎた」もっと時間があると思っていた、幸福にながらえる日々があると思っていた、でも全て遅い。だから
「裏切るよりも、愛に気付かぬほうが罪深い」

「もはや全ては終わったのだろうか」
オスカルの苦しみはそれほど深い。

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アニばら語り 従う発言

 

オスカルの従う発言。これもまた物議を醸している台詞。これを男性監督による男性への従属であると捉える向きも多いですが。私は別の捉え方をしています。

あの言葉の意味は「あなたに全て委ねる」ではなく「あなたを信頼する」ということなんです。
例えるなら、戦場で生死ギリギリの状況になった時、この人の信義なら信じられるという相手。アラン達はオスカルをそのように信じ、オスカルはアンドレを共に戦う人として信じている。

オスカルはどれだけ愛されたとしても、相手に人生も判断も全部委ねることはしません、それは依存です。依存ではなく、信頼。アラン達もオスカルを信じていますが、人生まで委ねていないですよね。それと同じ。オスカルはアンドレの見ている世界、望んでいる未来を信じたんです。

 

お前の見ている未来に私も行きたい、だから道を指し示してくれ。そこに到達するために「従う」人生を委ねるのではなく、共に戦うために。

 

それはオスカルの心からの望みで選択でしたし、その時のオスカルが身分の上下、男女の権力差というものに囚われていたとは思えません。ただ愛し信じた。

ではどうしてオスカルはアンドレをそれほどに信頼したのか。それはまた別で語ります。長いですがw

 

アニメの時代背景

 

アニばら語り 原作とアニメの違い

ベルばら原作とアニメの最大の違い。それは作られた時代背景の差だと思っています。

原作72〜73年
アニメ79〜80年
たかだか6年ですが、この差は大きい。

そしてオスカルの最期の描写。
原作「フランス万歳」
アニメ「アデュー」
この温度差。それは当時の若年青年層の熱気の差でもあります。

原作連載当時の若者達の熱気と狂乱は令和の今想像しにくいですが、凄まじかったようです。才能ある若いクリエイターとして、原作者は時代の空気を敏感に感じたでしょうし。オセローをコミカライズするなど歴史に興味があるなら、合体せたのは必然とも言えます。そして作品は革命を美しく描いていました。

ただし実際の学生運動は当然美しいものではなく、凄惨な闘争で大勢の若い人が亡くなりました。それは連載時、72年のあさま山荘事件等で明らかになっています。それでもオスカルは「フランス万歳」で死ぬ。当時の原作者が何故この最期にしたのか。理想に身を投じたことが美しいとしたのか、まだ革命の理想は生きていると感じていたのか。解釈はできますが、わかりません。

その6年後のアニメ。原作者と後半監督は4歳違いの同年代。当然連載当時の時代感も知っています。しかしこの間の空気はおよそ違っていました。学生闘争の凄惨さが明らかになり、次世代は政治や社会に冷淡に無関心になります。理想は泥に塗れました。
監督も既に青年ではありません。その時代その年齢で、数年前の狂乱を見返した時。強烈な敗北感があったのではと思います。なぜ理想が暴力に塗れ自壊していったのか。時代を生きた者として、苦い思いはあったでしょう。

だから革命の美しさを讃えた話はそのまま描けない、戦った者達は果実を取れない。だから「さようなら」
アニばらのキャラ達は皆、果実を取れなかった人達です。アニメのオスカルは自分が果実を取れないことをおそらく知っていましたし、アンドレも同じだと思います。義憤や利他や、まして理想ではなく。その時代に眼を開けて生まれた者として、己が道を選んだオスカル。そしてそのように逃げずに生きる彼女だからこそ、アンドレはそばに居続けました。

ここで再確認しておきたいんですが。「原作もアニメも、歴史を背景にした骨太なドラマである」ということです。恋愛は重要素ではありますが、副次的です。
両作品とも普遍的なテーマと時代性を見事に融合させています。原作もアニメも恋愛漫画ではなく歴史ドラマとして捉えなければ、キャラクターの背景、表現されている時代性、作り手のスタンスその他、見落とすものが多いと思いますし、それは作品にとって非常に残念なことです。