迦陵頻伽

あの方は謎だと言われました。

魍魎の跋扈する宮廷の中枢にいながら、いやそのためにいっそう清廉で、雹箇の如き峻烈さを持ち合わせていた、謎の女だと。

そう、女性でありました。金モールの肩章は鈍く重苦しく、腰の剣も軽くはなかった。その重さを微塵も感じさせず、風のように歩いていた。あまりにもその仕種が自然だったので、軍服も剣も幻であるかのようでした。
しかしその剣はよもや夢幻ではなかった。それは重く強く鋭く、かの女性が振る切っ先はあまたの男共の手を震わせました。白いなよやかな腕から、あれほど強靭な太刀筋が繰り出されるとは、誰も思わなかったのです。

誰もが・・誰しもがあの人の流した血など気づきもしなかった。剣の一振りでさえ、時には耐え難いほどの痛みを、肩に腕に与えていた。非力であるがために、力を余さず剣先に伝える術を身につけなければならなかった。剛力から振り下ろされる剣の自重を跳ね返すために、何があっても膝をついてはならなかった。あの人の辛苦を誰もが・・いえ一人を除いて、知る者は。

ただ彼の一人だけが全てを知っていました。剣を打ち合った後、痺れる手を小川の水に冷ましたのも、貴人の酔狂よと嘲られたのも。口を強く引き結んだまま、声に出さない声を、彼だけは知っておりました。あの人が艱苦に耐えるたび、彼がそっと手を伸ばし肩に触れた。数知れぬほど見た光景です。時にはただ見つめているだけで、あの人の口元が緩んだこともございます。かほどの責を、犯したことのない罪を、ただ美しく清浄であるというだけで負わされた重責を、物言わぬ黒い瞳だけが、祓うことができたのです。

 

忘れもしません、あの夜のことでした。陽が落ちたバルコンで、二人が肩寄せあっていた。あの人は震えていた。かつて犯したことのない、これから犯すであろう罪に立ち向かうことに、常ならぬ心細い様子であったのです。黒い隻眼は、常と変わらず穏やかに見つめています。これから二人で向かう道が、断崖の上であることを判ったうえで。
――私は怖い、恐ろしい。明日、私は兵士たちに命令する、死を。愛し、信じてきた人々に背き、己が選べと言わなければならない。私はその任に相応しいだろうか、私は・・。

その頃、地上には悲嘆が満ち、飢えと怨嗟が神の座す天まで立ちのぼっていました。あの人はその積怨の流れを変えようとしていた。暗闇で光る玉石、汚泥の中で咲く蓮のように孤高に輝く。彼はきっとその光が何を示すか知っていたのでしょう。だから揺るがず、あの人の逡巡を肯定していた。

その時、二人は私の羽音に気づいたのです。私は飛び立ちました、口に歌をのせたまま。彼の見えない眼の視線の先を追って、あの人も私を見つけました。
――お前は、遠くを見ているのだな。
二人は、夜空の頂に向けて飛ぶ私を、いつまでも見ていました。

 

どなたか、私の歌を聴いてください。私の悲嘆の歌、あの日彼が血の滲んだ口で歌っていた。あれは私の歌だったのです。あの人が倒れた時、仰ぎ見た空の片隅にいたのは私だったのです。誰か聴いてください。私が、声が枯れるまで伝えようとしている、あの二人の歌を。
もうあの人達を知っている、伝えているのはわたくしだけ。どうして、皆忘れてしまったのでしょう。あの人達が愛した人、あの人達を愛した人も皆、死んでしまった。もう私一人しかいない。

美しかった、強かった、弱かった、でも凛として砕けず、散らず、生き急ぐほどに生きた、あの人を。氷に閉ざされた謎と呼ばれたあの人を。

 

もうわたくしひとりしか・・覚える者はいない。私の歌だけが、あの二人の愛を、謳っている。

 

END