春望月

 何時とは知れぬ春の午後、男が一人、馬に乗り、山に分け入ろうとしていた。陽光は暖かかったが、肌にあたる風は冷たさを増していくようだ。
「・・雨になるのか?」
男は誰に問うでもなしに、声に出した。・・雨では困る。なんとしても今日だけは、雲ひとつ出てほしくない。見上げると、青く澄み渡った春の空に、雲は微かに上空にあるだけだ。
このまま何とか明日の朝までもってくれれば。今日、いや今夜一晩だけでいいのだから・・。
男は祈るような気持ちで空を眺める。じっと見ていると吸い込まれそうな蒼い色。その色は彼を遥か昔の記憶の中に連れ去る。
しかし今は物思いにふけっている場合ではなかった。一刻も早く目的の場所にたどり着かなくては。彼は手綱を引き締め、さらに森深く道を辿っていった。やがて道は細くなり、頭上の木々はうっそうと茂って、太陽の光はわずかに届くばかりになっていった。

こんなところに、本当に目指す場所があるのか、男の胸に疑念が湧く。しかしそこへの道は誰にも尋ねることはできず、自分で見つけ出すしかないのだ。少なくとも男はそう聞いていた。風説とも伝説ともいえない、わずかに人の口から口へと伝わってきただけのその話を、信じきっているわけではない。しかし残り少ない自分の時間を費やすなら、賭けてみてもいいのではないかと思ったのだ。心から其処にたどり着きたいと望むなら、きっと到達できるはずだ。彼は自分にそう言い聞かせて、細い道を馬と共に歩んでゆく。
山はますます深くなり、道は心細いほどに狭くなっていく。もうこれ以上馬では進めまい。しかし馬から下りて、歩いて辿り着けるだろうか。逡巡していると、茂みの向こうで何かが動く気配がした。潅木が揺れ、突然馬の前に飛び出してきたものがあった。馬は驚いて立ち上がり、彼は地面に投げ出された。慌てて身を起こした彼の目前にいたものは、狼かと見まごうほどの、大きく黒い犬だった。
「しまった」
野犬ならば、今ここで食い殺されてしまう。しかも落馬したときの衝撃で落ちたのか、銃が手元に無かった。馬はおびえてあとづさりし、犬は唸りながら彼との距離を詰めてくる。
こんなところで、ここで死ぬわけにはいかない。彼は犬から目を離さずに、必死で武器になりそうなものを探した。その時、鞭のように鋭い声が響いた。
「ケルベロス!」

犬は声にすぐに振り返り、その場所からぴたりと動かなくなった。やがて茂みから一人の男が出てきた。粗い布で作られた粗末な僧服を着ている。僧は黒い犬の首を撫でると座らせ、男に近づいてきた。
「申し訳ありません、お怪我は?」
深く落ち着いた声を聞いて、男の緊張はようやくほぐれ、木に手をついて立ち上がった。しかし先ほどは気づかなかったが、落馬したとき打ったらしく、左肩に痛みが走った。
「おや、やはりお怪我をなさったようだ。この先に私の家がありますので、どうか其処で手当てを・・」
言われて男は迷った。もうだいぶ日も傾きかけている。この分では今日中に目的地に着かないかもしれない。いや、その場所が本当にあればの話だが・・・。しかし痛む肩で馬に乗っていられるのか、この僧がこのあたりに住んでいるのなら、何か手がかりになることを聞けるかもしれない。
「では、お言葉に甘えさせていただきましょう」
男はそう言うと、馬の手綱を取って促す僧と、黒い犬の後について進んでいった。

しばらく行くと、石積みの壁が現れ、僧はその門の中に入っていく。壁の内側には、狭いながらも畑があった。その向こうにはかなり年月が建っているらしい黒い石造りの建物。
「ここは昔、小さいながらも修道院でした。今は打ち捨てられ、私一人が住んでおります」
僧は男をほの暗いが清潔で片付いた室内に招き入れると、怪我の手当てを始めた。僧の手際は良く、薬草と包帯を巻いて治療するのに、さほどの時間はかからなかった。
「このあたりに、人知れぬ不思議な泉があるときいたのですが。何かご存知ありませんか」
男は薬草や道具を片付けている僧の背中に向かって尋ねた。
「やはりあなたは・・泉を探しておられたのですね」
「知っておられるのですか!」
男は立ち上がり、僧のもとへと詰め寄った。
「教えてください、どうしても今晩其処に行かなければならないのです」
僧は彼の剣幕にも動じる風はなく、落ち着いた声で答えた。
「どうぞ、お座りください。わたしも少しお話したいことがあります」
男ははやる気持ちを抑えがたかったが、促された椅子に戻った。僧も彼に向かい合って座ると、静かに口を開いた。
「わたしは・・その泉の番人です」

「もうずっと長い間、ここで暮らしながら、時折あなたのような方が来られるのを待っているのです。この泉を探す人は、多分あなたが思っておられるよりずっと多い。人の口伝えに伝わることでも、求める人がいる限り、途絶えることがありません」
僧は何かいい香りのする茶を彼に進めながらいった。
「あなたは、ここの泉のことをなんと聞いてきたのです」
「わたしは・・、泉の事を教えてくれたのは、古い知人でした。彼はできるなら自分が行きたいと、しかし・・」
男は苦悶に満ちた知人の顔を思い出していた。
『私が行っても・・多分、あの方には会えないだろう。私はあの方を見捨てたも同然なのだから・・こうして・・自分ひとりが生き長らえている。人と世を、あの方を滅ぼした全てのものを憎みながら・・』
「そう、この泉の事を知っていても来られない人もいる。そして尋ねきても、辿り着けない人もいる。・・・・たとえ着いても、目的を達せられない人も・・」
僧の声は、深く低く、彼を諭すようでもあり、僧自身に言い聞かせているようでもあった。

泉の伝説。男が聞いたのは、そして強く惹かれたのは、ただひとつのこと。それは、
『満月の夜、春の花咲く木の下に湧き出でるその泉の傍らに立てば、亡くした人にもう一度会うことができる』というものだった。
それを聞いたとき、男は苦い笑みをもらした。かの知人は酔っているのか、それともそんな話に縋らなければならないほど、疲れ果てているか。たぶん後者だろうと思った。もう二度と手の届かないところへ行ってしまった者。再び会うことがかなうなら、悪魔に魂を売ってもいいとさえ思い詰めている。
彼はその話を、懐かしい知り合いにあったときの、酒の上での四方山話だと思っていた。たとえその思い出話が、今は亡き人々への追悼と愛惜と、自分自身への苦渋に満ちたものだったとしても、その知人に会えたことは嬉しかった。今も男の心の中に潜んでいる彼女の話をできる人は、本当に限られていたから。

あれからどれだけの年月が経ったのか。彼女は死に、自分は生き延びている。その日々は生半可なものではなかった。戦って、敗れて、そして一度はこの国を捨てたこともあった。もう二度と帰れないだろうと思いながら、異国で過ごした日々。帰国して、もう一度過去の情景が戻ってきたような気がしたときもあったが、確かに彼の上にも、この国にも確実に年月は過ぎ去っていたのだ。その中で妻を迎え、先立たれ、子は無かった。そして今彼自身も人生の終末を迎えようとしている。
あの夏、彼女を永遠に失った夏から、なんと遠くまで来てしまったことだろう。彼はうつむいたまま、自分の手を見つめていた。彼女の手を取り、この腕に抱きとめていたこともあった。あのまま、離さなければ良かった。そうしていたら、多分、彼女が旅立っていくことも無かったかもしれないのに・・。

「・・・ですか?」
僧が話しかけていることに気づいた彼は、顔を上げた。よく見ると向かいに座る男は、彼といくらも年は変わらないようだった。
「あなたは誰に会いたくて、此処にきたのですか」
僧の問いは、彼をまた思い出の中に引きずり込んでゆく・・。男はまた手元の茶碗に視線を落とし、呟くように答えた。
「むかし愛した女性です。いや、・・今でも愛しているのかもしれない。もう何年も前に亡くなりました」
彼は鳶色の目を閉じ、その瞼の裏に映る面影を追いながら言った。
「妻を迎えましたが、その妻にも先立たれました。そして・・私も、もう長くは無い。医者はいろいろ言いますが、結局は同じことなのです。そうして、自分の死期を前にして、思い出すのは彼女のことでした。夕日に茜色に染まった彼女の姿がどんな風だったのか、彼女が私に話しかけるとき、その赤い唇がどんなに魅惑的だったか、馬上の彼女が神と見まがうほどにいかに美しかったか。彼女のことを考えていると、すぐそこに立っているような気すらしたものです。しかし・・・」
いつしか春の太陽は落ち、あたりは夕闇の朱から、漆黒の闇へと移りつつあった。彼はそれにまったく気づかず、言葉を続けた。
「わたしは・・彼女の声が思い出せないのです。姿は克明に覚えている。その金色のまつげの一筋すら・・。でもどうしても声が分からない。どんな声だったのだろう、私の名を呼んだあの人の声は・・・」
男は顔を上げると、僧の目を見据えて言った。
「わたしはあの人にもう一度会いたい。会って・・その声を聞きたいのです。彼女の声を思い出せないうちは、死んでも死にきれないでしょう」
「奥方は?会いたいと思われないのですか」
「わたしは妻を愛していました。穏やかな優しい女性で、子供はいなくてもわたし達は幸福でした。その幸福な思い出があるからこそ、彼女を失っても生きてこれたのです。微笑んだ妻の表情、軽やかな笑い声、全てわたしの中には刻み込まれています。でも・・あの人は、あの方を失ったことはわたしにとって、言い知れない傷でした。妻との穏やかな年月もその傷を癒してはくれなかったのです。」
外には少し風が出てきたようだった。閉じた窓から宵の風と、そして白い月光が差し込んできた。彼はそれに気づくと、慌てて立ち上がり外に向かおうとした。それを僧が押しとどめた。
「お待ちください。慌てなくとも今宵は雲は出ません。わたしの話を聞いてくだされば、後で泉にご案内しましょう」

僧は新しいお茶を注ぎ、椅子に深く座ると語りだした。風は梢を揺らし、陽光に温められていた春の大気は徐々に熱を失っていった。
「私も、ここの泉を訪ねてきた一人でした。激動の時代の中で、たくさんの愛しい人々を失いました。母と妹と、そして友人を・・。血で血を洗うような情勢に疲れ、隠遁したような私のもとに、ある日古い友人が訪ねてきました。彼と語らううちに私は亡くした人に尋ねたくなったのです。殊に不幸な死に方をした妹に・・。私は妹の死を止めることが出来たはずだった。私が失意の底にいる彼女の側にいてやれれば・・考えてもどうにもならないことだと思っても、妹に聞きたかった。わたしはお前の力になれなかったのか、・・・そして何故、私や母を置いてひとりで逝ってしまったのか・・」
男は何も言わず、僧の話に聞き入っていた。この泉を訪れる数多の人々。彼らは一様に死者に聞きたいことがあるのだろう。どうしても今一度尋ねたいこと、答えを得られないと分かっていても、問わずにいられない。その答え無くしては、生き続けることのかなわない。その為に何処とも知れぬ泉を探す。
激動の時代、流血と死は日常だった。昨日権力の座に立ったものが、今日は断頭台の上にいる。しかしたとえ日常化された死でも、残されたものには衝撃以外の何物でもない。
何故自分の身近な人であったのか、他の誰かではなく、何故自分の愛する人間が死ななければならないのか。・・・答えは無い。多分死者に問うても・・。僧はなおも話を続ける。

「私はこの泉を探しました。そしてようやく春の満月の夜、花の下で、泉の傍らに立つことが出来た。・・・・しかし、求める人に会うことは出来なかった」
「なんですって」
男はそれを聞いて驚いて身を乗り出した。
「そうです、泉に辿り着いてもなお、会えるとは限らない。あなたの前に訪ねきた幾多の人々も、会えた方もいれば、まったく影すら現れなかった人も、声だけ、姿だけ、という方もおられました。・・・どうなるかは、その場所に立ってみなければ分からないのです」
「・・・それは、会えるかどうかは想いの強さに関係しているのでしょうか?」
「そうではありません。多分・・。ただ会えることのみが救いになる訳ではないのです」
男は動揺していた。弱った体に鞭打つようにして、ようやく此処まで辿り着いたというのに、会えないかも知れないとは・・。
自分の死期を悟ったとき、彼は泉の話を思い出した。そんなものは疲れた人々が生み出した風説に過ぎないと思っていても、残された時間を費やすならば、たとえ万分の一でも彼女に会える可能性があるならば、行ってみようと考えた。何故なら、自分の死後、別の世界で会えたとしても、彼女の傍らには彼がいるだろうから・・。

ずっと昔、この国を出る前に、ふたりの墓標のある海辺へ行ったことがあった。海を臨む美しい丘の上に二つ並んだ奥津城。彼はその前にただ黙って立っていた。何かを語り掛けたかったが、言葉が出てこなかった。自分は国を捨てるのだ、彼女が守ろうとして死んだものを捨てていく。その自分に何が語れるだろう、あの夏の日から・・、いや、彼女が私の前に立ちはだかったあの日から、選んだ道は決定的に分かれてしまっていた。そして彼女は死に、自分は生き長らえている。想いだけが巡って、彼は何も言わず、その地を後にした。それからあの場所には行っていない。

椅子に座ったまま、頭を抱え込んでしまった男の肩に手を置くと、僧は静かに言った。
「お話しておきたかったのは、このことです。会えるかどうかは分かりません。それでも、泉に行きたいとおっしゃるなら、ご案内しましょう」
男は顔を上げた、その瞳は逡巡して揺らめいていたが、意を決したように言った。
「連れて行ってください。私をその泉に。譬え・・会えなくても、影すら見ることが出来なくともかまいません」
僧は彼の目をじっと見詰めていた。そして別室に下がると手に灯りを持って出てきた。
「泉に至るまでは道もありません。足元は深い。気をつけて進んでください」
ふたりが外へ出ると、あたりはすっかり夜に包まれている。しかし頭上には浩浩と光を放つ春の満月があって、そこここを白く浮かび上がらせていた。石垣の門から出ると、いつのまにかあの黒い犬が僧に寄り添い、守るように付き従っていく。男と僧は黙って夜の道を歩いていく。ただ足元を取られないよう、暗い森を進んでいくだけだった。闇はますます深くなり、月明かりさえ届かぬようだった。不意に前を行く僧が足を止めた。下草に気をとられていた男は、気づいて顔を上げると、驚愕した。

視線の先に深い森とは思えないほど、開けた場所があり、そこに月光を纏って、白く浮き立つような樹が立っていた。歩を進め、その樹がもう少しはっきり見えてくると、月光を吸い込んでいるのは、樹に一面に咲き誇る花だと知れた。
男は呆然として、その樹の下に近づいた。花は満開のようだった。可憐な一重の花々は、よく見れば淡い紅色をしているようだったが、この月の下では一切の色彩が無くなっている。穏やかな夜風に揺れて花が落ちる。その花びらの軌跡をたどっていくと、木の下にさほど大きくはない泉が湧き出ていた。泉の水面は一面の花びらが覆い、白い光をまたもや反射していた。そして泉の中央には春の望月が映っていた。男はただ言葉もなくその情景を見つめている。まるでこの世のものとは思えない。ここが求めた場所に違いなかった。

「私はここで帰ります。・・朝になれば迎えにきますから」
言われて男ははっとして僧を振り返った。僧は悲しげなたたずまいで、忠実な黒犬とともに立っている。
「有難うございます。・・わたしは」
男が言おうとするのを、僧は手を上げて押しとどめた。
「私に礼など要りません」
僧は深く一礼すると、踵を返して森に入っていった。その後ろ姿が見えなくなると、男は木の下に腰を下ろし、花を透かして見える月を見上げた。

先ほどは驚きが先に立って、ゆっくり樹を眺めることはなかったが、こうしてみると背の高い木の枝は、夜空を覆い尽くすばかりに広がっている。鬱蒼とした花々が風に揺れる音、花びらが水面に落ちるときの微かなざわめき・・。他には何も聞こえなかった。このような深い森にあって、獣の声すら聞こえないと言うのは奇妙だった。男は次第に疑念が胸に広かるのを感じた。
本当に此処がその泉なのか、あらためてこうして一人で考えていると、何もかも全ておかしい事ばかりのような気がする。あの僧は番人だと言っていた。そういえば犬もケルベロスなどと名づけて。地獄の番犬か・・。そもそもこのような伝説は神と教会に背くものだ。其処に僧がいるとはおかしいのではないか、あの犬が地獄の番犬だとしたら、ここは地獄への入り口なのかもしれない。確かに此処は・・この世のものとは信じられないほど美しい。此処ならばおきるはずの無いことがおきても不思議ではないような・・。
浮かんでは消える思念の泡は、男をいつか眠りの中へと運んでいった。

風に髪を揺らされて、男は目を覚ました。先刻まで中空にあった月はすでに降りようとしている。彼は溜息をついた。月影の花の下で眠っていると、何もかもが夢に思える。死病に冒されている自分の身体も、妻を失ったことも、そしてあの人が泉の下へ行ってしまったことも。
彼は彼女をその腕に抱きとめていた日のことを思い出していた。あの時に戻れたら、あの人が進んでいった道が火に包まれていることを知っていたら、決してあの手を離しなどしなかったのに・・。彼はこれまで幾度となく繰り返したその想いを止めることが出来なかった。でも譬え時間が戻っても、彼女は自分の選択を変えなかっただろう。そう分かっていても、悔悟の念は消せない。

わたしは彼女に会って何が問いたいのだろう?ただ声が聞きたいと、そう願っていたはずなのに、本当に彼女に会えれば、何を話し掛けるのだろう。丘の上で、墓標を見ながら言うべき何物も持たなかった自分なのに・・。
彼は苦笑して、足元に散り落ちた花を弄んだ。わたしは彼女に会う資格があるのだろうか。彼女は自らの信じた道を歩み。為に愛しい恋人とともに逝き、今はふたりで静かな深い場所で眠っている。その永遠の安らぎを乱していいものか。自分の想いだけを募らせて、ひどく愚かなことをしているのではないのか。自責の念が沸き起こる。
自らの命と引き換えにしてもいいから、彼女に会いたいと思ったのは何故なのか。僧が言ったように妻にこうして会いたいとは思わなかった。妻とは最後まで一緒だった。妻の死を見取り、亡骸を埋葬した。墓に花をささげ、面影を思い出しては泣いた。妻の生も死もわたしの中にある。だが彼女は違う、行く道が分かれてからの彼女のことは、ほんの少ししか知らない。彼女の骸すら見ていない、見たのは白い十字架だけだ。
もし彼女が此処へ現れるなら、わたしはまず許しを請わなくてはならない。わたしの身勝手で眠りを妨げたこと、そして・・
風が強くなった。月光に花が揺らめき、一瞬彼は目を閉じた。再び開いたとき、其処に彼女がいた。

 

彼女はいつか見た青い軍服を着ていた。あの日彼の前で、自分を撃ち屍を超えていけばいい、と叫んだ彼女。だが、今眼の前にいる人は優しく微笑んでいた。彼は立ち上がった。ゆっくりと・・。
「ジェローデル」
低く、しかし凛とした美しい声が彼の耳に響いた。ああ、そうだ、この声だ。彼女はいつもこんな風に彼を呼んでいた。何故忘れていたのだろう。
「・・・マドモアゼル」
そして彼は彼女をこう呼んでいた。あの時・・。
「わたしをマドモアゼルなどと呼んだのはお前だけだったな」
少し可笑しそうに彼女が笑った。彼はそれ以上言葉が出なかった。言いたいことが沢山あるはずなのに、胸が詰まって何も言えない。彼女は花の下に腰を下ろした。幻だとは思えなかった。触れればきっと暖かい血が流れているような・・。しかし彼は黙ったまま彼女の傍らに座った。今は風もなく枝は微動だにしなかった。

「お前に・・謝りたかった」
彼女は俯いて、地面の散り落ちた花を見ながら言った。
「何をですか」
「お前の前に立ちふさがり、窮地に陥れたことを・・」
「それは・・昔のこと、今となってはとても小さなことです。あなたとわたしの信じるものが違ってしまった以上、必然だったとも言える」
「そう・・もう随分と昔のことになってしまった・・」
あの日から、あの夏から、あなたを失った時から、どれほどの年月が経ったのだろう。わたしは、わたしは・・あなたに・・・彼女は彼を見ていた。もの問いたげに。わたしが・・あなたに聞きたかったのは、あなたに言いたかったのは・・。
突然彼には分かった。彼が彼女に言いたかったこと、此処までやって来て彼女に伝えたかったこと、それは。

 

あなたは何故わたしを残して逝ってしまったのか!譬え二度と会えなくても、信じる道が違っても、生きていて欲しかった。この世界の何処かに、あなたが生きているというだけで良かったのに!

 

そう言いたかった。叫んでしまいたかった。幻でも夢でもかまわないから、今此処にいるあなたを抱きしめて、二度と離したくないと。かつて失ったものを、もう一度この手に取り戻したいと。・・だが。
見つめる彼女の瞳は以前と変わらない青だった。澄んだ空の色。海の底の瑠璃の色。その色に吸い込まれ、彼の昂ぶった心の波が収まっていった。今、彼女がいるのは安らぎと平穏に満ちた場所なのだ。そこは月に照らされた泉のように深く静かで、限りなく美しい。海に潮が満ちるように、彼の心に穏やかさが広がっていく。彼は深く息をついた。

「わたしはあの夏から、永い時を生きてきました。自分の死期を前にして、あなたに会いたかった。・・許してください。あなたの平穏を乱したことを」
彼女は首をわずかに振り、微笑んだ。
「乱されなどしないから・・でもお前に会えて良かった」
「わたしは地上に帰ります。神の意志によって召されるその日まで・・」
微笑を浮かべた彼女の顔、それは彼が幾度となく、想い出の中で思い浮かべた笑顔と同じだった。違うのは今まで苦痛無くして見られなかったそれが、今はただ懐かしさと喜びを持って見つめられることだった。彼は思い出した。始めてあった少女のころの彼女、馬上で指揮をとる彼女の横顔、傍らで愛しさに胸を詰まらせていた自分の姿を。あの頃、彼は幸福だった。そして今も・・。
春の陽射しのような笑顔が一瞬花に隠れ、そして其処にはまた月明かりと薄紅の花だけが残った。花びらだけが彼女の影を追うようにして、はらはらと零れ落ちる。

 

彼は立ち上がり、

 

月を見上げ、そして

 

泣いた

 

 

 

曙光があたりを包むころ、黒い犬が迎えにやってきた。彼は森を抜け、僧の庵へと戻った。僧は部屋に彼を迎え入れると、茶を薦めて腰をおろした。
「戻ってこられたのですね」
「ええ、またこの現し世で生きるために」
彼らはそれ以上何も語らず、春光が大気を温めるのを感じていた。彼は昨晩、ここでこうして座っていたことが、遠い過去のように思えた。暫くして僧は立ち上がった。
「山の日は早い、お疲れでなければ、今のうちにご案内しましょう。あなたの馬は外につないであります」
心の穏やかさの為なのか、僧の煎れてくれた薬草のような茶のお陰か、不思議と疲れは無かった。
「本当になんと御礼を言うべきなのか・・」
僧は首を振った。
「わたしはただの守、道案内です。あの場所に辿り着き、戻ってこられたのはあなたの意思ですから」

そして彼らは石垣の門を抜け、森を降りていった。しばらく行って、開けた道へと出ると僧は立ち止まった。
「このまま行けば、ふもとの村へ着きます。陽が傾くまでに着けば宿があるでしょう」
そういって立ち去ろうとする僧を男は止めた。
「待ってください。・・ひとつだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「あなたは妹に会えなかったとおっしゃった。諦めきれないために、留まっておられるのですか」
「そうではありません。確かに妹には会えなかった。しかし・・」
僧は、自分が今降りてきた山の頂きのほうを振り返り、言葉を続けた。
「妹には会えず、かといって地上に降りる気持ちになれず、迷って留まっていたある日、わたしはあの泉で彼に会いました」
「彼とは」
「古い友人でした。大切な。よもや彼に会うとは思わなかった。花の季節ではなかったので、月が見せた幻だったのかもしれない。しかし・・わたしにはそれで十分でした。彼は泉のほとりに立ち、わたしを見ていました。以前と変わらぬ笑顔で。・・・そしてわたしには自分の役割がわかったのです」
男は頷いた。彼もあの月の下で同じ想いを抱いていたのだ。
「逝ってしまった人々の記憶を抱えたまま、生き続けるのが残された者の務めです。いつかわたし達が塵に還るまで・・・わたしは此処に留まり、道案内を続けていきます。・・・もうあなたにお会いすることはないでしょう」
僧は彼に一礼すると、来た道を犬とともに戻っていった。

もう男は此処に来ることはない。ふと彼は自分の髪に一片の花びらがついている事に気づいた。それをそっと手にとると、儚げな紅色を見つめた。一陣の風が通り過ぎ、花びらは新緑の木立へと吸い込まれてゆく。
それから彼は道を下っていった。その道には木漏れ日が煌めき、空の片隅には白い鳥が一羽、かすめるように飛んでいく。何時とは知れぬ、春の日だった。

 

 

END