彼は今日もその扉を押す。扉の向こうは狭くて暗い、カウンターの向こうに一人の男が立っている。彼が入ってきても、男は顔を上げて、ちょっと頷くだけ。
その小さな酒場は彼のよく来る場所だった。ただしここへは一人で来る。誰もつれてきたことはないし、教えたこともない。
カウンターの中の男は、低い声で注文だけを聞き、黙って作る。それだけの店だった。
他にも星の数ほどありそうな店。違っているとすれば、無愛想な男が、ときおりつぶやくように低く歌うことぐらい。

最初、アンドレはその歌に気づかなかった。彼の頭の中は、出口のない感情でいっぱいで、どうにも逃れられない、堂々巡りの中にいた。そこへ、歌が飛び込んできた。
聴いたこともない旋律。低く呟かれる歌詞は、よく聞き取れない。しかし、言葉とメロディーの単純な力が彼の頭の中の霧を晴らした。
『たくさんの恋の歌がある 素晴らしい歌もあるけど 僕には似合わない
恋は進むべき道を示すというけど 僕は自分で厚い雲で隠してしまう』
彼はそれから何度かこの店に足を運んだ。いつも客は少なく、彼一人の時もあった。注文を聞いて作り、グラスを片付け、そうして、何もすることがなく、手持ち無沙汰になるのだろうか、カウンターの中の男がときおり歌う。それはいつも違う歌で、そして聴いたことのない旋律だった。それなのに不思議と懐かしく感じられる。

「君は誰かを本気で愛したことがあるのか。そう言われた」
「なんて答えたんだ?」
「愛したとことくらい、ある。とね」
「愛したこと・・か」
彼の女主人は、叶わぬ片恋いをしていた。ブランデーの酔いにまぎれて彼女が苦しそうに話した内容。彼はただ聞いているしかない。彼はいつでも聞き役だった。
話すことで、彼女を押しつぶしそうになっている感情から、いっときでも解放されるなら、それでいいと思っていた。自分の心臓が切り裂かれる気がしても。
『でもあなたは恋がどんなものか知らない
命を賭けなければ出来ないキスをするようになるまで
涙の味のする唇を知るまでは 恋がどんなものかわからない』
彼は酒場で一度聞いただけの歌を低く歌った。オスカルはちょっと驚いたように、眉を上げて、それは何だ?と尋ねた。
「『赤い目をして、眠れぬ夜を恐れて、そんな自分が自分だと知る時まで
恋を知ることは出来ない』・・ただの歌だよ」
「誰もがそうなのかな」
「誰もだよ・・お前も俺も」
「お前も?」
「そうだ」
「誰に?」
「誰に・・だと思ってる」
ふたりの視線が絡み合ったが、彼女は目を伏せて、そのまま黙ってしまった。外には雨だけが降り注いでいる。

『お願いだ 僕と踊ってくれ 君の腕も君の魅力のすべても
いつも僕の傍らで輝いているように』
彼女が始めてローブを着た夜。眩暈のするような美しさを前にして、彼の耳に歌が聞こえた。彼女は夜会で、誰と踊るのだろう。
「俺でないことだけは、確かだな」
自嘲気味に呟くと、彼は踵を返して屋敷に入り、厚い扉を閉めた。彼女を乗せた馬車の音が聞こえないように。

彼は幻を抱く。腕の中の女が彼女でないことはわかっているのに。ただ人の腕の温もりだけを求めて、束の間の解放を求めて。
彼の身体の下の女は彼女と同じ金髪だった。それだけのこと、それだけの類似。瞳も声も肌も似ていない。 ただその表情が、深い哀れみを持っているような気がした。それは彼の願望だったのかもしれないが。
『こっちにいらっしゃい 憂鬱そうな坊や 抱きしめてあげるから
悪い方に考えちゃ駄目 夜明けを待つのよ キスで涙をぬぐってあげるから』
誰かに言って欲しかった。そう答えて欲しかった。
『きっとあなたの恐れなんて ばかげた幻想よ
ブルーな気分になっちゃ駄目 わたしはあなたが好きよ』
夜明けが来ることがあるのだろうか・・。

あんな風に言うつもりじゃなかった。傷つけるつもりもなかった。それなのに何故。
「俺は彼女を憎んでいるのだろうか。そうでなければ、あんな酷いことが出来るわけがない。愛している気持ちと同じくらい憎んでいるのかも」
いくら考えても答えは出ない。彼はまたあの酒場に行き、いつもと同じ席に座って飲んでいた。ただ心の中はどす黒い自虐でいっぱいだった。
切羽詰った彼の様子に、主人は片方の眉を上げ、黙って酒を注いだ。
『柳よ 僕のために泣いてくれないか 僕の代わりに泣いてくれないか
その緑の柔らかな枝を風に揺らし 僕の影を消してくれ
夢はどこにも残っていない 夏という季節が僕の中から消えうせた
夜が 誰もお前を愛していないのだと 僕に呟く』
自分の腕の中にいても、心が別の処にある女。涙とともにか細く洩れた名前。
「・・フェルゼン」
此処にいるのに、自分の手の中にいるのに、世界の果てにいるのと同じくらい遠い女。
これまでもそうだった。これからは・・もっと遠くへ行ってしまうのかも。

オスカルはどこへ行こうとしているのだろう。父親の怒りにもそ知らぬ顔で、違う世界へ飛び込んでいく。俺はただ側にいるだけ、守るだけだ。手が届かないままで傍らにいることがどれほどの苦痛でも。
『髪の毛一筋も変わらなくていい、お前はお前のままで
毎日が お前の為の日なのだから』

アンドレはドアを開けた。いつもの物言わぬ男の顔が見える。何も言わない、語らない。それが何より安らぎになった。他の客の中には、とりとめなく男に話しかける者もいるが、たいていは生返事か、もっと重い沈黙か、どちらかが返るだけだった。これほど無愛想な酒場も珍しいだろう。
だからここに来る客は、殆んどこの沈黙の音をなじみにしたものばかりだった。百万の言葉より、沈黙の方が心静める場合もある。今日も客は彼一人だ。
背後の扉が開いて、誰かが入ってくる。見るともなしに振り返った彼の眼に、豪奢な金髪が映った。
「・・オスカル」

彼女と外で飲むのは久しぶりだった。兵舎に泊り込むことが多くなったのもあるが、避けられているような気がしないでもなかった。
今日も先に屋敷に戻っていると言っていたのに。尋ねてみたいが、この静けさの中でははばかられる。それに、何も言わず隣り合っている、この穏やかな時間を壊したくなかった。
「さっき、この店に入るお前を見かけたんだ。入っていいものかどうか迷っていて」
「声をかければいいのに。それに、ここら辺は静かだが、夜のパリは物騒だ」
「・・ああ、でも・・」
それきりオスカルは黙ってしまった。何か言いたげで、でも言葉にできないような、そんな沈黙だった。いつものことだが、主人も何も言わない。
『恋はいつも未知なもの あなたは 恋がどんなものか知らない』
アンドレがいつか歌った歌を、主人が歌っていた。彼女ははっとしたように、低く歌う主人を見ていたが、やはり何も言わなかった。
彼女がその時何を言いたかったのか、何を考えていたのか。俺が知るのはもう少し後だった。

『私たちは一緒にいる 永遠の愛を誓っている
決して別れなど来ないと約束している
神の祝福の時 穏やかで狂おしい喜び・・』
身を焦がすほどの狂おしさ・・求め続けたものを得られた平穏・・。それが今までの日々の終りで、すべての始まりだった。

「あんたは、国を出る気は無いのか?」
アンドレは驚いた。この主人が話し掛けてくる事などついぞ無かったから。
「いつかきた金髪の女、恋人だろう、ふたりで一緒に何処かへ行ったほうがいい。できるだけ遠くへ」
アンドレは男が何故いきなりこんなことを言い出したかわからなかった。
「彼女はあれからここへ来たことがあるのか?」
「ああ、一度だけ。でもその時もう来ないといっていた。ここはあんたにとって大事な場所だろうから、自分は来ない方がいいと言ってね・・・いい女だな」
アンドレはなんと答えていいかわからなかった。
「貴族にはこれから先厳しいだろう、特にあの女みたいなまっすぐな気性の人間は、生き延びられるかどうか。悪いことはいわん、フランスを出るんだ」

ここに来るようになってから長い間、沈黙だけを仲立ちにしていた。何故突然、こんなに饒舌になったのか。しかし彼が自分たちを心配していることだけは分った。
「ありがとう。でも彼女も俺も国を捨てる気はないんだ。以前にもそう言ってくれた人がいたけど、オスカルはたとえフランスと心中することになっても離れないといっていた。俺はその彼女を守るだけ。それに、あなたの歌にもあっただろう」
『愛と名誉の戦い それを為すか それとも死か
世界は愛のために戦う人だけに優しい
全ては流れの中にある』
男は黙り込んだ。静かな夜だった。外の物音も聞こえない。嵐の前の静けさ。そんな感じだった。

「俺はな、世界は、人間は残酷なものだと思っている。人が何度も同じような争いを繰り返すのを見てきた。暴力というものは人間にとって、とても魅惑的なものなんだ。自分は正義で相手は敵だ。そのカタルシスは、どんな媚薬より甘い。だが・・もしかしたら、あんたの方が正しいのかもしれん」

アンドレは男を見た。幾つくらいなのだろう?
その瞬間、初老の男が、まるで何百年も生きてきた人間のように見えた。暗がりに座っている男の顔の皺は今まで見たこともないくらい深く、男が背負ってきた歴史が垣間見える。
「・・あなたは、どこから来たんですか?」
男は顔を上げ、小さく息をついて言った。
「どこから来たのか、今となっては忘れてしまったよ。だが、どこから来たのかはどうでもいいんだ。何処へ行くかなんだ。俺も、あんたも、あんたの恋人も。行く道はひとつじゃない。よく考えておくことだ」

男は自分にも酒を注いだ。それも初めてのことだった。杯を軽く持ち上げ、男は言った。
「あんたと彼女に世界が優しいことを願ってるよ・・」
アンドレも杯を掲げ、琥珀の液体を喉に流した。甘く辛く、そして熱い水。恋のような。

彼はオスカルにあの酒場での事を言い出すべきかどうか迷っていた。彼女は今彼の胸に顔を埋めて、束の間の安らぎを貪っている。
『離さないでって言ってるの キスしてって言ってるの
ずっとわたしのために歌って わたしもずっと歌うから』
オスカルが低い声で歌っている。ああ、これはあの男の歌っていた歌だ。何故こんなに心に残るのだろう。
「その歌は、何処で」
「いつかお前に会っただろう、あの小さな酒場・・あれから一度だけ行ったんだ。お前に悪いと思ったけど」
「どうして?」
「あれは、ああいう場所へは踏み込むべきじゃない、お前の大事な場所だから。でも、何だか、静かで、息のつけるところに行ってみたくて。今の歌がお土産だってあの主人が言っていた」
『わたしを月に連れて行って、星の間で遊ばせて、
離さないで・・そしてキスして・・』
その歌どおりに彼はオスカルにキスをした。彼女の蒼い瞳が揺れている。月に連れて行けたら・・彼女が進もうとしている火にまかれた道から連れ去れれば。
だけど、それは叶わない夢だ。何処までも彼女とともにあると決めたのだから。明後日にはパリへの出動が決まっていた。

身体が熱い・・火のようだ・・声を出そうとしても、喉がふさがっている・・何故だろう、ああ、そうだ、撃たれて、だから血で・・喉が。でも聴こえる・・あれは、歌だ・・。誰が・・?
『あの人の唇を思い出す 夏の日にキスしたあの柔らかな唇
そしていつも傍らにあった 日焼けしたなめらかな肌
わたしは全てを失ってしまった
わたしのハートは歌っている 恋人よ 帰ってきて 私の胸に』
オスカル・・泣くんじゃない・・。見えなくても・・聴こえているから・・。熱い・・水が欲しいな・・オスカル・・・・。

『なぜ太陽はいまだ輝き 海は波打つのだろうか
私にとって世界は終わったというのに
もうあなたは此処にはいない
朝、すべていつもと変わらない
心臓だって動いている 眼もちゃんと見えている
もう世界は終りなのに』

年老いた男が、窓辺に立ち、昇る太陽を見つめていた。
夜が明ける。夏の朝だ。今日は1789年7月14日。昨日の戦闘は激しかった。また血で血を洗う争いが始まるのだろうか。彼らはどうしただろう、あの恋人たちは。
人の世は何故こんなにも同じ争いを続けていくのか。もういいかげん見慣れたはずなのに。彼らのような人間を見るたびに、石のように干からびた、この心臓も痛む。

どこかにまだ夢を見たい気持ちが残っているのかもしれない。数百年生きて、もう何物にも心動かされることは無いと思っていた。それでも捨てきれないものがある。それは夢とも、希望とも呼ばれるもの・・。

『夢を見つづけよう
ブルーな気分の時は特に
毎日がやるせなく過ぎていく時でも
あなたの夢は生き続けなくてはならない

夢を見つづけよう
すくなくとも僕は  そうしているよ』

END

作中の歌詞はすべてJAZZのスタンダードナンバーです
引用文献;「恋はいつも未知なもの」村上龍