KUCHINASHI

午後の陽光が兵舎の窓を通して、柔らかく入ってくる。彼女はふと目を上げて、向かいに いる栗色の髪の男を見つめた。陽光の下で、その色はいっそう輝きを増す。その髪の一筋が 彼女のような金色に染まっているのに見とれて、彼女は言葉も動くことも忘れていた。する と顔をあげた彼と目が合った。慌てて手元の書類に目を移す彼女を可笑しそうに見ている。 しかし彼も何も言わなかった。

彼女は仕事に意識を集中させようとして、せわしなく書類に目を通す。しかし自分の神経 が、彼の動きを細大漏らさず捕らえようとしているのを止められなかった。見ていなくても、 声に出さなくても、彼の動きがわかる。紙の上の文字は、まったく頭に入っていなかった。 その時彼が思いついたように、彼女に仕事の後食事に来るように誘った。心のうちを見透か されたような急な誘いに彼女が戸惑っていると、彼は立ち上がった。 近づいてくるその姿に、彼女は胸の奥がざわめくのを感じていた。彼は彼女の背後に立ち、 そっと顔を耳元に近づけて、囁く。

「贈り物が・・・ありますから」
囁かれた声と、言葉と、熱い息が耳にかかり、一瞬に身体が燃え上がったような気がした。 彼は指一本触れていないのに、彼女の肌を泡立たせることができる。急激に流されていく感 情の波に、彼女は混乱し、次に怒りが湧いてきた。何も答えず、ぷいと横を向いて顔を伏せ る。彼は時々こんな悪戯をした。

彼らが恋人となったとき、彼女から言い出したことだ。公の場では、以前と変わらずにい ようと。軍隊の中での上官と副官という立場は、それでなくても微妙なものだ。女の身で連 隊長であるというだけで風当たりは強い。彼は言われるまでも無く、彼らの関係を露わに することからくる、余計なざわめきを心配した。いずれ、時期がくれば・・。
そう思っていても、日々側にいて、声が耳に響くだけでも、血がざわつくことがある。抑 えるのは容易ではなかった。特に彼は、以前と変わらぬように冷静に接する彼女に、時々か すかな苛立ちを感じ、少し揺さぶってみたい気になる。

あれは彼女が今のように書類をめくっていて、紙の切り口で指先に血を滲ませた時だっ た。右手の薬指を染めた血を、彼は唇で吸い取った。彼女は驚き、手を離そうとしたが、全 身を溶かす感覚に身体が縛られて、動けなかった。拒否する言葉は、まるで力が無く、身体 中がしびれていく感覚に、思わず吐息が洩れる。誰かが入ってきたら・・そう頭の片隅で考 えても、声に出せない。
塩辛い血をのせたままの彼の舌が、掌をたどり、手首に絡みついたとき、窓にかすかな 音がした。それは風にゆすられた木の枝があたっただけだったが、彼女は唐突に我に帰って 彼の手を振り払った。怒りに燃えた目で。あの後も彼女の機嫌が直るまで大変だったのに、 彼はささやかな悪戯を止めようとしない。

仕事が終り、帰る頃になっても、まだ彼女の中には怒りがくすぶっていた”行くものか” と腹立ち紛れにつぶやいてみても、誰も聞くものはいない。あの後彼は悪びれもせず、黙々 と、しかし楽しそうに仕事をこなしていた。一足先に帰る間際、お待ちしています、とだけ言 い残して。そんな彼を見ていると、なおさら腹が立つ。

でも心の奥底で、こんな風に揺さぶられるのが心地いい自分にも気づいていた。翻弄され ることは不快どころか、彼女の血をざわめかせ、固くかぶった殻にあっさりとひびが入る ことの快感を覚えさせた。・・・迎えがくれば行ってしまうだろう。彼が意味ありげに囁い た「贈り物」を知りたい好奇心が、表面だけの怒りより強いことはわかっていた。

迎えられた食事の間も、彼は「贈り物」について、何も言葉にしなかった。まるで忘れて しまったように。他人が聞けばたわいない会話を交わしながら、彼女が実は知りたくてたま らないそのことだけには、決して触れようとしない。内心じりじりしながらも、自分から口 にすることはためらわれる。彼は明らかに彼女の反応を楽しみながら、分かっていて黙って いた。
ようやく食事の後彼の部屋に通されると、テーブルの上に小さな箱が置いてあるのが目 に入った。彼女は期待を込めた目で彼を見つめたが、彼は答えず、彼女を椅子に座らせると、 目を閉じているように言った。

彼女はその態度にいらだたしさを感じたものの、これ以上じらされたくなくて、素直に 眼をつむった。彼がすぐ傍らに立っている。見えないことで全身が神経になり、鼓動が早く なってきた。しかし彼はまだ黙ったままだ。
「何を?」
問うた彼女の唇に彼はそっと指を当てた。そして、彼女の金の髪を手にとると、肩へまとめ て流し、白いうなじを露わにした。鼓動はますます早くなり、息が上がってきた。

空気の振動で彼が箱を手に取り、蓋を開け、そして中のものを取り出したのが分かる。 彼はそれを彼女の頬にそっと当てた。一瞬びくっと身体が震え、思わず目を開けそうになっ たが、頬に感じるひんやりとした感触の物が、どうやら硝子か陶器のようだと分かった。
「わかりますか?」
彼の声がすぐ耳元で響く。彼女はわずかに首を横に振った。小さくガラスのこすれるような 音がした。次の瞬間、あたりが花に包まれた。・・・・しかし、それはすぐ鼻孔をくすぐる 花の香りだと知れた。
「・・・香水?」
彼は答えず、何かに濡れた指先で、そっと彼女の耳朶に触れた。花の香はますます強くなり、 その甘さに頭の中が陶然となっていく。肌がほてって熱を持ち、吐息が洩れた。指が次々と うなじに、胸元に香りを刻んでいく。

いつしか窓には、ガラスをたたく雨の音が響いていた。雨音以外何も聞こえない、何も見 えない世界で、彼女の身体から力が抜けていき、指の動くままに肌を泡立たせていく。息 を吸い込むと、身体の中まで香りに侵食されていった。何も考えられなくなるのは、ワイン のせいなのか、ふくよかな甘い香のせいか、彼の巧みな指のためか。雨の湿気で空気は重 みを増し、香りは二人を霧のように包んでいく。
彼女は自分の身体が抱えあげられ、やがて柔らかなシーツの上に下ろされるのを感じた。 初めて彼女は薄目を開けて、恋人の唇が近づいてくるのを見ていた。雨の音はますます強い。 帳が下ろされ、心地いい重さの身体が重なってくる。

どのくらい眠っていたのだろう、ふと目を覚まし体の向きをかえると、鳩尾に一滴の汗 が伝って落ちた。それは自分のものなのか彼のなのか分からなかった。雨に塗りこめられた 部屋の空気はしっとりと重く、情交の後の汗と香水の匂いを、身体の周りに閉じ込めてい た。私は何か不思議なものでも見るように、落ちる汗の玉を見ていた。
何故こんなに熱く身体がほてり、湿気を含んだ空気と交じり合って、汗になるのだろう。 その汗を手の甲でぬぐうと、かすかに彼が自分につけた香水の香りが混じっている。

あなたのために作らせたから・・そう言って彼がわたしの耳元と、胸と、手首、そして 内腿に少しづつつけていった。不思議な香りだった。花の香りのような・・そうでないよう な・・どこかでいつか知っているような香り、なんだろう・・思い出せない。

傍らで眠っていた彼も気配に目を覚ました。指にわたしの髪を絡ませて、瞼にそっと口付 けを落とす。わたしも彼も湿った大気のためか、お互いの熱のためか、霧を纏ったように、 肌がうっすらと濡れている。彼の舌が掌が、皮膚の上をすべるたび、雨を吸い込む乾いた大 地のように、彼の温もりが浸透してくる。自分の身体が熱い湯に使ったように湿り気を帯び、 よりいっそうきめ細やかになっていくのが分かる。唇が肌を溶かす、指先が皮膚を刺す。真 皮が融け、骨が融け、時間も融けて、ただ漂う感覚だけが心を支配していく。もっと・・ もっと・・・・。

香りは体温の上昇とともに、いっそう匂いたち、髪にシーツに痕跡を移していく。彼とわ たしに同じようにつけたはずの香水の香りは、もうその姿を変えていた。彼とわたしでは発 している匂いは全然違う。

彼に香りをつけたのはわたし。香水の入れられた精細なガラス瓶には、儚げな女の横顔が 刻み込まれていた。その顔は半ば微笑み、誘っているように思えた。

――私ガアナタヲ包ンデアゲル・・・・モット溶カシテテアゲル・・・・・アナタノ 望ムママニ――

わたしは瓶を手に取り、その透明の液体を指先につけると彼の耳元につけた。もう一度香 りを手にとると、今度は腋に、次は鳩尾に、次は・・・・。彼は笑ってみていた、わたし のすることを。さも愛しいものを愛でる眼をして・・・。わたしはそんな風に彼に見つめら れるのが好きだった。

だからそのまま彼につけた香りをたどって、彼の肌の上にわたしの唇の痕跡を残した。赤 い花びら、無数の生きている花の片鱗。彼が動くたびにその皮膚に刻まれた刻印も動く。わ たしは満足した。

彼の顔に、苦痛とも快感とも知れない表情が浮かぶたび、いつもの翻弄する側とされる 側の位置が変わったことに刺激を感じる。あの香水瓶の横顔の女と同じように、わたしが彼 を包んでいる。その感覚が、血を沸き立たせ、気持ちが大胆になっていった。

彼がいつもしているように、彼の肌に指を這わせて、舌がその後を追っていく。彼の吐息 が耳に響き、さらに昂ぶっていく感情。唇がゆっくりと降りていって、熱くなった彼を捕 らえた。舌に苦い味が刺す。固く、熱く、柔らかい、口に含まれると、わずかな刺激にも反 応して、蠢くもの。わたしは舌と指で弄びながら、彼の声を聞いていた。それを自分が上げ させていることに、ぞくぞくするほどの快感を覚える。彼の中を全部わたしで満たしたい。

その意地悪な唇をふさいで、彼を見下ろしたい。哀れむように、愛しむように・・・。 聖母のような、娼婦のような表情で・・・・。わたしはもっと深い愛撫を彼に与えていく。

彼はたまらず、わたしの腕をつかんで抱き寄せ、息を封じ込めるほどの深い口付けを降 らせた。耐えられずに私の動きを制止する彼に、悪戯な笑みを向けて呟く。
「お前がいつも・・わたしに悪戯を仕掛けるからだ・・」
彼は、降参しました、と小声でわたしの耳に囁いた。少し意地悪そうに微笑む自分の表情が、 彼の栗色の眼の中に映っている。

囁かれる愛の言葉と雨の音が、子守歌のようにまどろみの中へ誘い込む。その恍惚の中で わたしはこの芳香の主を思い出した。あれは白い花、花弁は今のわたし自身の肌のように 湿り気を帯びて、馥郁とした残香が人を酔わせる。その花の名は・・・・確か・・・。名を 思い出す前に、彼の手の感触の中に思念が融けていく。そのまま、また夜の深い淵に落ち 込んでいった。

――長い夜がまた、恋人たちの上に降りかかった
芳しい白い花の雨に塗りこめられて・・・・―――

END