六月

狂うまで抱き合えればいい

-朝-

目覚めるともう彼はいなかった。私は昨夜の記憶が残ったまま冷えたシーツを眺める。深く暖かい眠りについたはずなのに、朝は冷え冷えとして寒い。緩慢に体を起こす。髪をかきあげると、少しだけ腕に匂いが残っている。ゆっくり息を吸い込む。彼が残したものを体の中へ留めるために。細胞のひとつひとつが夜に戻っていくのを感じる。息を止めて、目を閉じて、指先の軌跡を辿っていく・・・。
しかしそれも長くは続けられない。部屋に明かりが満ちてきて、容赦なく時間が流れていることを思い知らされる。一日が始まるのだ。私は深く息を吐くと立ち上がり、窓を開ける。残り香を朝の中に消していく。

-正午-

夏が近づく日。太陽が昇りきると、奇妙に蒸し暑くなった。夜半まで降っていた雨が地面に残り、蒸気となって立ち昇っている。額を押さえている私を見て、彼が熱い茶を運んできた。果物の香りがする。メリッサの葉だ。口に含むと、頭を覆っていた霧が晴れる。体に纏わりつく湿気も感じないほどに。
私は机に戻った彼の横顔を盗み見る。ほんの束の間。それ以上は視線をとどめない。見つめると--止まらなくなる。またここで夜に戻ってしまう。彼が顔を上げた気配が伝わっても、私は目を落としたままだ。時計が正午の鐘を鳴らした。私は立ち上がり、彼の横をすり抜けて扉へと向かう。一瞬、朝の寝台と同じ香りがした。立ち止まらず、彼を残したまま後ろ手に扉を閉めた。止めていた息を吐き出し、力なく壁に寄りかかった。外の日差しが眩しかった。

-夕暮れ-

陽が傾く。今日が終わりに近づいていく。厩舎に差し込む光も細く長くなっている。今日はもう屋敷に帰るだけだ。軍人の、伯爵としての、長い日が終わる。六月の一日は長い。太陽はなかなか沈もうとしない。私は彼から少し離れたところで壁にもたれ、徐々に赤みがかっていく空を見ていた。早く陽よ沈んで、早く。願えば今ここに夜の暗闇がくるはずも無いのに。願ってしまう自分自身に溜息をつきながら、私は彼がすぐ傍に立っていることに気づかなかった。
「・・オスカル」
彼は私に触れようとしていただけだ。左手を伸ばして、指先だけを、頬に。指が触れるか触れないか、唐突に早朝の記憶がよみがえる。瞬間、私は驚き怒りそして、恐れた。
―――まだ夜じゃないまだ今じゃないここで壊れてはいけない・・触れたら

反射的に右手を振り上げ、鞭を-手に握ったままだった-振り下ろした。空気を裂く音がした。左目に―――あたる!
鈍い音が響いた。彼が左手で鞭を握り締め、私の過ちを止めていた。破られた手の皮膚から血が滲み出している。私は微動だにできなかった。彼が鞭を離すのと、体から力が抜けるのが同時だった。膝が崩れた私を抱きとめた彼の顔が目前にある。突然折れるほど抱きしめられ、唇がむさぼられる。舌が絡み、息が出来ない。床に倒れこみそうだ。苦しい痛い辛い悲しい熱い、愛しい。

やがて唇が離れ、拘束が解かれる。彼は私を壁にもたれさせ髪を撫でた。耳元で小さく”すまない”と呟いて、身体を離す。私は自分の頬に触れてみた。濡れているのは涙だけではなく。微かに錆のような匂いがした。彼の血だった。熱く甘い・・彼の血。

六月の夜が訪れる。私は明けることのない夜を待っている。

 

END