誰も恋を知らない

 

君は知らないだろう。恋に理由などない。明け方、誰かが呼んでいるような夢を見て、目が覚める。その時、自分が恋に落ちていることに気づくんだ。甘やかな声がすぐそばにあったはずなのに、冷えた寝台には自分ひとりだ。夢の中で確かにあった記憶が薄れていくことが悲しい。その人にここにいて欲しい、今すぐに会いたい―――そう思うとき、恋は始まっている。
知らないのか、だから理屈などない。たとえ相手が・・・・でも、決して届かない相手であろうと。そして、手が届いたとしても出口はない。夜の中で束の間しか抱き合えない関係でも、追うことはやめられないんだ。
それにこの恋には、人々の目と噂がついてまわる。宮廷では、誰もが彼女の一挙手一投足に目を向け、自由はない。昼の光の下であの人と語らうとき、私にはどれほどの苦痛か。視線のひとつすら語ってはいけないと、張り詰めた心ですごす。それでも会えないよりはいい、薄く青い瞳を見つめられるだけでもいい。触れられなくても、私の言葉が音となり、振動となって、あの人に伝わるだけで。それだけでも・・・・。
君は知らないほうがいい。こんな思いは・・罪人が負うべきものだ。

お前が知らない?そんなはずはない。お前は知っている。去っていく背中を目で追うこと。さりげなく触れた指先に息がつまっても、動揺を悟られないようにすること。みな、知っているはずだ。そうだろう。
俺は知っている、お前の視線の先。無言で短調の曲を弾くときの、お前の心。分かっている・・分かっていて俺には何も言えない。お前は俺の気持ちを知らないから。お前が恋から目を背けようとしていることを知っているから。目を背け、知れないふりをして、逃げようとしても。どれだけ足掻いても、魂が囚われている以上逃げ場のないことを。お前に伝えるべきだろうか。
伝えたい、お前に。恋が、どれほど優しく残酷なものなのかを・・伝えられたらいいのに。

私は多分恋を知らない。知りたくないと思っているのかもしれない。恋を語る人の言葉の重さや、熱病のような表情。私は知りたくない。私は蓋を開けたくない。
真夜中、誰かに呼ばれて目を覚ます。暗い天蓋。月のない夜。手を伸ばして何も掴むものがない不安。寂しい・・誰かにいて欲しい。そんな気持ちをわかりたくない。
知ること、知らずにいること。どちらが幸福だろう。
夜、浅い眠りから目覚めたまま考えていると、重い扉を開けそうになる。開けた扉の向こうには、私の知らなかった私がいる。
どんなに遠くから声がしても、彼は必ず振り向く。やがて木の陰からあの方が姿を現すと、もう彼は私の前にいない。アルコールの底に沈んで、搾り出すように語られる彼の苦しみ。黙って頷く私。その涙に濡れた頬に触れてしまいたいと願う私が・・いる。
扉の向こうには何がある?穏やかで暖かく光あふれる昼か、激情に揺さぶられ風が荒れ狂う闇か―――怖い。知りたくない。

誰も恋を知らなければいい。恋など存在しなければいい。

恋をしなければ・・私もあの方の苦しみもなかっただろうか。

恋がなければ・・俺には別の人生があっただろうか。

恋を知ったら、私は変わるだろうか。

でも、知らないままで生きることはできない。
誰もがいつか恋を知る。

多分、生きるために。