葉月

「キスがいい」

「なんだって?」
「キスだよ、ただの。何でもいいと言っただろう」

とうに日は暮れたというのに、夏の宵はいつまでもじっとりした暑さを残している。遅くに帰り、喉を潤すためだけだったはずのワインはいつもより多かった。クラヴァットをはずし、襟を緩め、それでも纏わりつく湿気は拭えない。

いつもと同じようにふたり向き合ってワインをあけている夜でも、風もない重苦しさに言葉も少なくなる。オスカルはぼんやりとワインを注ぐ彼の指を見ていて、唐突に彼の誕生日が明日であることを思い出した。

「誕生日と言っても、殊更欲しいものがあるわけじゃない。ただ・・いまふと」
「気まぐれというか、突拍子も無い奴だ」
「おめでとうの言葉と、キスと。欲しいものといえばそれだけかな。他に思いつかない」
「ふ・・ん」
「子どものときからずっと、お前は顔を合わせると一番に言ってくれただろう。それがとても嬉しかった。どんなプレゼントより」
そう言って彼が微笑むと、オスカルもつられて笑った。部屋の隅の時計が小さく鳴りだした。

「ちょうど12時だ」
グラスを打ち合わせると、オスカルはアンドレの椅子の前に立った。肘掛に両手を置いて、顔を近づける。どちらが先というのでもなく、眼を閉じる。
「誕生日おめでとう、アンドレ」

唇が軽く合わさった。すぐに離れると思っていた、お互いに。唇が微かに動くと、彼の手が彼女のうなじに回った。息を止めたまま、二人とも動けない。オスカルの肩が震えた。舌がそっと唇の裏をなぞっている。
「・・・ん・・」

離れなければ。そう思っても、彼の腕が肩と背中を捕らえている。掌の当たっているところから身体が痺れていくようだ。唇を吸う小さな音、肘掛をつかんだ手から力が抜けていく。保とうとして不意に膝が崩れる---彼の舌が深く入ってきた。
「あっ・・」

倒れそうになるのを彼が寸前抱きとめた。唇が離れてもまだ、瞳がすぐ前にある。ふたりは押し黙ったままだった。黙ったまま、互いの眼の中にあるものを探していた。
やがて支えていた腕の力が弱くなり、オスカルはふらつきながら立ち上がると、窓のそばへ寄って背を向けた。

「・・・キスだよ、ただの」
「そうだな・・」
振り返らずに彼女が答える。
「ワインはもう下げよう。おやすみ、オスカル」
答えはなかった。扉の閉まる音がして、足音が遠ざかっても、彼女は立ち尽くしていた。ひんやりとしたガラスに頭をもたせ掛けて、両手で肩を抱く。
「熱い・・」

夏の夜は未だに暑さを残していた。大気にも、彼女の内にも。

 

END