五月の風

夫人は柔らかな椅子を選んで腰掛け、ベルを鳴らして侍女を呼んだ。やがて侍女が暖かいショコラを持って入ってきた。
――本当に疲れているときにはこれが良いんです。手の中でゆっくり温めたまま、少しずつ甘いものを流し込んでいくと、ほっとして、身体が解れていくのがわかる。
昔、誰かがそう言っていた。不思議なものだ、今まで思い出しもしなかったのに。漂う甘い香りが記憶を呼び起こしたのだろうか。

夫人は、湯気の立つ濃い液体から、熱がじんわりと掌に伝わっていくのを感じていた。この温かさ甘い香り、確かに疲れ固くなった心が解れていくのがわかった。半分ほど飲み干したところで、立ちあがり、もう一度部屋の中央の寝台へ近づく。そこに横たわった女性は静かに眠っていた。
今日は天気も良い、風も無い、できるなら少し窓を開けて、部屋の空気を入れ換えたほうが良いとは思う。春先だというのに、暖炉には火が燃えていて、部屋の中は熱がこもっていた。夫人が寝台から遠い窓を僅かに開けると、春の薫風が入ってきた。

微かにどこかから運ばれてくる花の香を吸い込むと、寝台の女性を振り返る。息も穏やかで良く眠っているようだった。もう少し窓を開けても、起こしてしまうことは無いかも。そう思い、窓を押すときしんだ音がした。寝台から小さくうめく声が聞こえて、夫人は慌てて振り返った。すっかり痩せてしまった女性は、細い指で上掛けを掴もうと震えている。
「ごめんなさい、お母様。寒いの?」
窓を閉めて寝台まで駆け寄った。母は暫く荒い息をしていたが、その呼吸もしだいに静かになっていった。深く息をつくと、閉じられていた眼が突然、はっきりと開いた。
「オスカルは?」
ここ数日、ほどんと意識が無く、こちらの問いかけには答えることが無かった母が、ここまで明瞭に話すのは久しぶりだった。
「オスカルは?」

「・・・・オスカルは」
母の目は、せわしなく天蓋から窓の方へ、そして傍らの娘へと動き、宙を見たままとまった。
「オスカルは、先に行っているわ」
「そう・・」
「オスカルは・・ずっと、ずっと先に行っているのよ。お父様もクロティルドお姉さまも、先に行っているわ。大丈夫よ、お母様・・・・大丈夫」
夫人は枕の上に散らばった色褪せた金髪を、そっと撫でた。震える手を温めるように握り、語りかける。
「大丈夫・・何も心配することは無いわ。皆、先に行っているのですもの。お母様は、長い間辛く苦しかったの
だから・・もういいのよ。大丈
夫。もうオスカルの名前を呼んでも良いの。誰も・・何も、咎めたりはしないわ」
夫人は、幼い子供にするよ
うに、母の頭をそっと撫でながら、呟きつづける。
「あの子の名前を封印しなくて良いの・・もう、苦しまなくていいのよ、お母様・・お母様」
母は眼を閉じていた。

三日後に息を引き取るまで、ジャルジェ夫人は意識を回復することは無かった。医者がやって来て手首を取り、寝台の傍らに立つ娘、ジョゼフィーヌに死を告げた。

庭に一面の薔薇が咲いていた。――亡くなる前に、せめて咲いていたらよかったのに。そう思いながら、春の陽光の下をゆるゆると歩む。ジャルジェ夫人が長年慈しんできた薔薇は、主がいなくなっても咲き誇っていた。ジョゼフィーヌが屋敷を訪ねると、母は庭にいることが多かった。時には自分で土をさわり、葉を摘み、膨らんできた蕾を愛しそうに撫でていた。
ジョゼフィーヌは、その母の横に座り、時に花の咲き具合や穏やかな天気について言葉すくなに語り合った。家族の消息、家の中のこまごましたこと。どれだけ何を話しても、末の娘、ジョゼフィーヌの唯一の妹・・の名前が出ることは殆ど無かった。ふとした折に、名前を口にすると、その後、暫く黙り込んでしまう。そしてそんな時は、ジョゼフィーヌも何も言わなかった

全ては遠くなってしまったのに。何もかもが記憶の中だけにしかないというのに。何が、名前を口に出すことを抑えていたのだろう。
閉じた瞼の裏、思い出の中の妹は鮮やかだった。陽に照り映える金髪をなびかせ、軽やかな足取りで進む。きっとあの暑い夏の日も、妹はあの足取りで進んでいたに違いない。後に残してきたものに、足をすくわれることは無かったはずだ。
瞼の裏に映るその影はあまりに眩しく、苦痛無しでは思い浮かべることが出来ない。ジョゼフィーヌと母親は、同じ思いを共有しながら、黙って花の香に包まれていた。

あの日、あけた窓から薔薇の香りがしたように思う。まだ春は浅く、咲いていたはずなど無いのに。母にも、その幻の香りが届いたのだろうか。だから眼を開けたのだろうか。香りは、記憶を呼び覚ます。どれだけ深く閉じ込め、過ぎた年月の彼方にあるものでも。

白い薔薇だけを摘み、小高い丘の上までくると、ジョゼフィーヌは墓に花を手向けた。風が、彼方まで香りを運んでいった。