月の温度

夏の夜、私は思い出す、黒い瞳を。それは私の十字架。

いつかは忘れてしまった、ある夜のこと。何かに呼ばれたような気がして、目を覚ました。まだ夜は深いはずだったが、部屋が白い光に浮かび上がっていた。いぶかしんで身体を起こすと、窓から入る月光が、部屋中に満ちていた。
私は寝台から右腕を伸ばし、その光に手を透かしてみた。一切の色彩を消してしまう光の中で、私の腕は蝋細工のようだった。白い肌も、透けて見える血管も何か作り物めいている。

呆然と自分の手を見つめていると、彼の手が私のそれに重なった。眠っていたはずなのに、起こしてしまったのだろうか。振り返ると、肩越しに微笑んでいる彼の顔が見える。彼の手は私の手をすっかり包み込んでいる。夜の冷気に曝されていた腕は、しだいに熱を帯びて、温かくなってきた。 彼は私の腕をつかんで、身体を自分の方へ向けさせた。冷えてしまった私の右腕を撫でながら、尋ねた。

「何をしていたんだ」
「月の光には、温度が無いものだなと思って・・太陽の光はあんなに暖かいのに」

そう答えて、片方だけの彼の瞳を覗き込む。そこには月夜に相応しからぬ深い闇。
彼は私の言葉につられるように、白い光と闇に満ちた部屋を見渡した。月光の下で色彩の消えた世界。色と喧騒に満ちた昼間とは対照的な。

最近、それでなくともきな臭さが増している。暴動の知らせは毎日絶えることがなく、馬上にいてすら、群集と眼を合わせるのは危険だった。何が発火点になるかわからない。憎悪が黒い霧となって、重苦しく巴里を、この国を包んでいた。
そんな息すらつけない日々の中で、こうして人の温もりを感じている時だけが安息だった。
しかし、こんな安らいだ時間さえ、いつまで保てるだろうか。
気がつくと、彼は私の顔をじっと見つめている。ふいに彼が口を開く。その言葉は思いがけないものだった.

「窓辺に・・立ってくれないか」
私は驚いて彼を見つめ返す。真意が分からず、なんと答えていいのか声が出なかった。
「見たいんだ、・・お前の姿を」
「・・・・でも」
彼の目を覗き込むと、私はそれ以上何もいえない。彼に見つめられるのは、ほんの少し怖かった。何故かはわからない。限りなく暖かく優しい瞳。でもじっと見ていると、黒い深淵に落ち込んでいきそうな眩暈を感じる。どうしてだろう、こんなにも愛しいのに。

今夜は月の光のせいだろうか、いつもよりその淵が深いような気がする。私は不安になった。何故こんなことを言い出すのだろう、普段の彼なら、私を困惑させるようなことを頼むはずはないのに。
答えに窮している私の耳元で、彼が再度囁いた。
「頼むから・・」
私は意を決して、彼の腕の中からすり抜け、寝台から降りた。そしてゆっくりバルコニーに通じる窓辺へと近づいた。

窓の外へ目をやると、外は一切の色彩が無くなり、一面白く染まっていた。庭の散り遅れた薔薇の花が、その色を失って、丸くなって眠る鳥のように凍りついている。月夜の鳥・・私は声も無く見つめていた。
「オスカル・・」
囁くように呼ぶ声に、振り返り、彼と目が合った。そして、そのまま私も凍りついた。
彼は寝台に起き上がり、私を見ていた。ただそれだけなのに、金縛りに合ったように動けず、目もそらせなかった。

彼の目が、私を解体していく。視線が私の皮膚をなぞっていく。月光を背にした私の体躯は、輪郭が光の中に浮かび上がり、腕や胸や腹に、陰影を刻んでいた。その身体の細胞のひとつひとつまで細かく砕き、それを再び彼の中で組み立てなおしているようだった。

黒く深い闇を宿した隻眼が、見えない手となり、私に触れていった。私はその手の下で、まるで彫刻のように全く別の形に作り直された。
私の身体は明らかに以前と変わっている。肩も、腕も、胸も、腰も、足も・・・・彼が作り変えた。彼の掌の熱を受けるたび、身体は融けて、再び形作られる。今の私は彼の愛撫による作品だった。彼の愛を受ける以前の私は、もう髪の毛一筋すら残っていない。彼は自分が作り出した白い身体を、瞬きもせず見つめている。

ただ見つめられているだけ。それだけなのに、何故こんなにも、身体の奥が熱くなるのだろう。彼の瞳を見つめ返すと、まるで毒を飲まされたように指先までしびれてくる。胸が上下し、息が荒くなり、腿の内側の筋肉が緊張するのがわかる。

その時、足に生暖かい液体がつたい落ちた。ゆっくりと腿の内側を通って、踝に達する。その血のような、涙のような残滓は、電流のように私の全身の皮膚を総毛立たせる。
熱の無い光の中に立っているのに、何故こんなに熱いのだろう。曝された皮膚がざわついている。声が出ない・・息をすることも、目をそらすことすら出来ない。このままでは死んでしまう。

私は渾身の力を振り絞って、目を落とした。月光と影しか纏っていない自分の肌が目に入る。それはさっきの腕のように、青みを帯び、生きた女の身体には見えない。しかし荒い呼吸に胸は上下し、早鐘のように打つ鼓動に、筋肉が動いている。
自身の影がくっきりと床に映っている。窓の格子がまるで十字架のように私の影に重なっていた。

――そうだ、私は今十字架にかけられている。彼の視線が私の手と足に釘を打つ。だから動けないのだ。釘を穿たれた掌と足からは血が流れ出す。その苦痛はもはや痛みではなく快楽となって、身体中を駆け巡る。私の罪は何だろう――
それは彼の左眼を奪ったこと。そしてその彼を愛したこと。それが私の十字架だった。

私は知らなかった。私は左だけでなく、彼の右目からすら世界を奪おうとしていたことを。だから彼は私を刻み込んだのだ。月光を纏って立つ私を、ただ見つめることで、血の中に取り込んだ。死しても忘れないように。

蒼ざめて、蝋人形のように立ち尽くす私を、彼は何を思って見ていたのだろう。
そしてそれが彼が見た最後の世界、彼が見た最後の私。彼はもう二度と私を見ることは無かった。月の光ももう届かず、彼の世界は暗転し、一切の光が消えた。私はそれを知らなかった。知らないこともまた罪になる。

今、私は思い出す、彼の瞳を。深く黒い彼の瞳。死ぬ間際には何も映すことのできなかった彼の眼。それが私の罪、私の十字架。
私はそれを背負わなければ、重みに耐えかね、膝を屈しそうになっても、抱えたまま進んでいかなければならない。私はまだ成すべき事をしていない。
憎悪の霧を晴らすこと、遥かな明日、確かに何かが変わることを信じて。そのために私は戦わなくてはいけない。あなたがいなくても、私は此処に留まらなくては。いつか許されて、あなたの傍らで眠る日まで・・・。

END