見えるもの見えざるもの

まことの地獄をのぞきみたれば 片方のまなこは心願の国のみ仏に捧げまいらせ候

愛したことが間違いだったのか。
つぶれて見えないはずの眼の裏に、地獄の情景が映る。オスカルが血を吐いて倒れている。自分は黙ってそれを見下ろしている。彼女の傍には割れたグラス。絨毯に滲んだ赤いワインは血の色と区別がつかない。

苦しまずに死に至る薬を。鼠の這う路地の奥で男からそれを買った。袋いっぱいの金貨と等価にされたのは、親指の爪ほどの小さな壜がひとつだけ。

出会わなければこんなことにはならなかっただろうか。お互いの人生が交わった時に、もう定められていたのだろうか。何時から愛し始めていたのか思い出せなかった。光指す階段の上にいる子どもを見たときからかもしれない。母の亡骸を残してきた教会の高みに描かれた、天使のようだと思った。あの時から。

ずっと寄り添ってきた。あまりに近くにいすぎた。何も持たず生まれた出自を呪うことも後悔することも無く。彼女との間にある強固な壁を、あえて見ずにここまで来てしまった。どうして今まで一度も疑念を挟まなかったのか。お互いの存在が切り離されるなどありえないと、何故無防備に信じていられたのか。
昨日が今日に繋がるように、今日もまた明日に続くと何の疑いも無く信じていた日々。あの幼い日々に時間を戻し、出会う前に過去を戻して、全て最初からやり直せるとしたら。

・・・・埒も無い、今更戻ることも無かったことにも出来ない。

同じ形のグラスがふたつ。ワインの壜を挟んで対称に並べる。眼の裏に地獄が見える。愛する者の死と、それを見ている自分。殺したのが己であることを知っている。そして自らの死が遠くないことも。

「何故だか判らない・・・昔のことばかり思い出す」
「・・そうか」
「それも、幼い頃のことばかりを。あれは幾つだったんだろう、私は誰かを探して。そうだ、お前を探していたんだ。名前を呼んだけれど返事が無かった。屋敷の中にもいない、誰に聞いても知らないという、厩舎にも馬の影しかない。私は庭に出て、お前を呼んでいる。薔薇園を抜けて、梔子の潅木の繁みまできて・・・ようやく」
「見つけた?」
「・・・・・ああ」
「・・・・・・」
「お前、泣いていたよ」
「俺が?」
「慌てて袖で顔をこすっていたけど、眼が真っ赤だった」
「そんなに泣き虫だったかな」
「私は呼んでも返事をくれなかったことに腹を立てていたけど、お前の顔をみて、ほっとして、それから何も言えなくなった」
「覚えてないな、しょっちゅう剣で負かされては泣いていたから」
「・・・・そうじゃない・・違う」
「何が違うんだ」
「お前が泣いていたのは負けたからじゃなくて・・・私も・・お前の顔をみていたら泣きたくなった」
「どうして、お前まで泣く」
「私には何も言えなかった。お前が亡くした母と離れた故郷を想って泣いていても。どう言えば、どう伝えればお前が泣かずにすむのか判らなくて・・何もできなかった。あの頃から・・私は無力のままだ。お前が苦しんでいても何もできない」
「それは・・・俺の問題で、お前が負担に思うことじゃないよ」
「いつもそうだ。私のことは自分のことより先に心配して、苦しんでいても表に出さない。ベルナールを傷つけようとした時も、片目が失われる恨みより、私の行動を諌めるほうが先だった。これまでずっとそうやって・・今でも」
「・・・・・・・・・・」
「今でも・・自分の心の内は決して言わない。私はお前が苦しんでいても手を差し伸べることが出来ないんだ。私の前でいつもと同じように振舞っていても、ひとりの時には、また声を噛み殺しているのかもしれないと思っても・・・私自身が、お前を傷つけているから。だから」

オスカルはそれ以上言葉を続けず、黙って俯いていた。言葉にすることのできない感情が、霧のように部屋を包んでいて、何の物音もしなかった。ただ、彼女の肩が小刻みに震えているだけ。
お互い以外の全ての存在が消えてしまったような、静かな晩だった。音のない世界で、彼女の手の中のグラスだけが、禍々しい赤い色を放って揺れている。ゆっくり彼女の前まで進みでて、グラスを手にとり傍らのテーブルに置く。跪いて、顔を真っ直ぐに覗きこんだ。
「覚えているか、オスカル。お前は一度俺の命を救ってくれた。アントワネット様の馬を暴走させた時。あのとき、俺はお前に報いようと誓った。俺の命でお前に対して贖おうと」

「俺が何に苦しんでいるとしても、お前が自分のままでいるなら、自分に嘘をつかず、心のままに生きているなら、それでいいんだ。それだけで・・・お前がいるだけで・・・どんな苦痛からも救われる」
オスカルの頬から零れ落ちる露を指先で受け止めた。暖かかった。指が触れた頬は生きて血が通っていた。愛しい、かけがえのない、この世界で唯一の存在。この手で失わせることなど・・・到底できない。

いつしか振りだした雨とともに、地表に赤い毒が吸い込まれていく。もう、閉じた左眼の裏には、何も映らなかった。代わりに、右の眼に新たな情景が見える。愛しいものの姿が、出会ったときのように、光を伴って。自分は傍らでそれを激しい憧れとともに見つめている。手が届かないことにどれほどの苦痛があろうと。愛するものが存在している、それは無上の幸福なのだ。愛することを知っているものだけが得られる―――天上の幸福。

いまひとつのまなこあればあこがるるなり
そのひとつもていまだかなわぬ生類のみやこへのぼりたく候

石牟礼道子「死民たちの春」より引用

END