また会おう

「さよならはいつも間に合わない」
--誰と話していたんだろう。そうだ、あいつだ。
「さよならを言って別れたことが無いんだ。母も、多分父親もだと思う。父の時は、幼すぎて覚えてないんだ。母も・・あの時は人が死ぬということがわかってなかった。さよならを言わなければならないことも」
--何故そんな話をしていたのか思い出せない。あいつも、別れを言う間もなく逝ってしまった。

もともと何も持っていなかったに等しい。荷物は小さな鞄だけで、身ひとつで出ていくのと変わりない。建てこんだ建物の上階にある彼の部屋から、落ちる陽は見えないが、灯りの無い部屋は次第に暗くなっていく。彼がテーブルの上に酒壜とグラスを出したところで、ノックの音がした。ドアを開けると一人の女性が立っていた。
「こんばんは、アラン」
「アンヌ、どうした」
「入ってもいい」
「・・ああ」
彼は身体をずらして、女性を促した。
「灯りをつけないの」
「飲みに出ようと思っていたんだが、かまわない。今、灯りをつける」
彼が蝋燭に火をつけると、部屋の一角がオレンジの光に浮き上がった。
「すまないな。たいていの物は片付けたから、蝋燭もこれだけだ」
「何処かへ行くつもり」
「多分・・」

彼女は椅子に腰掛け、暫く黙ったまま揺らぐ灯りを見ていたが、眼を落として言った。
「謝ろうと思ってきたの。あんな風に言ったのは間違いだったわ。どうにもならないことだったのに。何を言っても彼が帰ってくるわけじゃないのに。あなたにひどいことを」
「そんなことはない。誰もがそう思うんだ。後になって、もっと違う道を取れば変わっていただろうと、誰もが考える」
「でも、決してあなたのせいではなかった。ピエールが・・死んで、あなたが生き残ったからといって、責めたのは・・・・ごめんなさい」

俯いて両手で顔を覆ってしまったアンヌの傍まで来ると、アランはそっと肩に手を置いた。
「ピエールはあなたが好きだったわ。軍務は辛いけど、良い仲間がいるから。いつもそう話して・・」
「俺も、あいつらが好きだったよ」
そのまま沈黙が降りた。短かった蝋燭がすべて融け、最後に小さな音を立てながら火が消えていった。やがてアンヌは立ち上がった。
「もう暗い。送っていこう」
「いえ、いいのよ・・・さようなら」
背中を向けたアンヌが扉のところでふと立ち止まり、振り返らずに呟いた。
「さよならを言わなかったわ」
「何?」
「最後に面会に行って別れる時、さよならを言わなかったの。ただ手を振っただけで。言っておけば・・・よかったのかもしれない」
アランが答えられずにいると、彼女はそのまま階段の暗がりの中へ降りていった。彼はその足音が消えるまで佇んでいた。それからおもむろに扉を閉め、夏の夜に出ていった。

--あの話をしたのも夜だった。
「たいていは間に合わないもんだ。そんなはずはない、逝ってしまうはずはない。そう思っているうちに言いそびれる。誰でもそうじゃないか」
--そんな会話を、月のない空を見上げながら話していた。

何処へ行くともあてはなかったが、歩いているうちに自然に足が向いた。閉まっているかもしれないと思っていたその店の、切通しの窓から小さく灯りが漏れていた。彼は年月を感じさせる重い扉を押すと、カウンターの奥にいつもの顔があった。
「やあ、久しぶりじゃないか、アラン」
「この店、まだやってたのか」
「ご挨拶だな」
彼が席に座ると、主人は何も聞かずアランの好きなラムを出してきた。アランはグラスを口に運びながら、背後の重ねられたテーブルや椅子を不振に見やった。彼のほかに客はいない。いつも扉の上で揺れていた看板も外されていた。
「今日で閉めるんだ。看板も下げたよ。二十年ここでやってきたがこれでお開きだ」
「そうか。これからどうするんだ」
「叔父が南のほうの田舎にいて、小さな酒場をやっている。いずれ継がせたいから来いと言ってきた」
「いい話じゃないか」
「俺はここで生まれて育ったんだ。他の土地は知らん。叔父はパリが危ないからと心配してくれるが、友達も知り合いも殆どこの周りにいる。できれば」
「なんだ、まだ迷っているのか」
「離れたくないと思ってる・・だが」
「だが、なんだ」
「ここは人が死にすぎる」
アランは黙っていた。それから腕を伸ばして壜を取り、グラスに溢れるほど注いだ。

「あんたや、フランソワやジャン。衛兵隊はよくこの店にきてくれた。喧嘩で壊されもしたがな」
「そうだったか」
「あんたの座っているその椅子も、二度は足が折れたよ。あまり後ろに体重をかけるな、継ぎが折れるかもしれん」
「どおりでぐらつく。先に言ってくれ」
「だがいい客だった。来るのが楽しみだったよ」
「来るたびに派手にぶっ壊したのがいい客かい」
「ああ、俺はあんた達が好きだった。何年も通ってくれた。それが・・・半日で半分死んじまった」
「・・・・」
「あの日は、道を歩いている人間が皆血走った眼をしていた。棍棒でも鎌でも、武器になりそうなものは何でも持って走り回っていた。眼の見えない老人が踏みつけられるのも見たよ。馴染みのパン屋もガラスを割られた。割ったのは俺の知り合いだった。あちこちから悲鳴と銃声が聞こえて・・あの日一日で何人死んだ?」
「・・・・さあな」
「ジャン、ピエール、フランソワ、もっといただろう。あの片目の、あんたとよく並んで飲んでいた。あいつも確か」
「もうよせ!」
アランは乱暴にグラスをテーブルに叩きつけた。琥珀の液体がこぼれて茶色い染みが広がる。

「俺は恐ろしかった。そしてとても悲しかった。これまでだって、暮らしが楽だったわけじゃない。でもパン屋を殴りつけてパンを奪ったり、戦闘で死んだりすることは無かったんだ。今のままじゃどうにもならないからといって、ここまで血を流す必要があるのか。どうなんだ、アラン!」
応える声は無い。カウンターに手をついた主人の腕が小刻みに震えていて、アランは固く握り締められた主人の両手を見つめていた。やがて腕から力が抜け、主人は崩れるように椅子に座り込んだ。
「・・・すまん」
「いや・・」
「俺はいつも、客が帰るときは”また来てくれ”と言ってたんだ。本心から、そう思って言っていた。だからもう二度とあいつらが来てくれない事が、悔しいだけなんだ。重い石を飲み込んだみたいに、とても・・・・苦しい」
「残された者は・・皆、同じだ」
「そうだな」
アランは薄暗い店の中を見渡した。テーブルと椅子が重ねられ、片付けられた店は、彼らが何度も訪れて騒いだ場所とは全く違っているように見えた。
---この店も、もう過去になる。また別の看板がかかる日があるかもしれないが、そこに俺達はいない。
アランはカウンターに向き直り、主人に声をかけた。
「最後に、もう一杯くれないか。新しいグラスで」
「ああ」
アランは液体が注がれたグラスを傍らの席に置いた。

--さよならは間に合わない。あの時は言えなかった。言いたくなかった。本当に逝ってしまうとは思いたくなかった。いつもそうやって別れを言いそびれる。だから今、ここで言っておこう。
彼はグラスを持ち上げた。隣の席にいた、後ろのテーブルで騒いでいた、今はここにいない友人と仲間と・・・そして一人の女性に。さよならを告げ。

アランはグラスを空けると立ち上がった。
「元気でやれよ、田舎も良いもんだ。暖かい南の土地ならなお良いさ」
「ありがとう。あんたも元気でな」
「じゃあまたな」
「ああ、また・・会おう」
外は風も雲もなく、建物の影に切り取られた空には星が瞬いていた。

--また会おう。そう言って別れる方がいい。またいつか、生きていれば。この空の下の何処かで・・きっと。

 

END