夕暮れ

17のとき、身ひとつで田舎からパリに出て、軍隊に入ったのは19のときだった。仕事が見つからず街角で座り込んでいたら、徴募兵に捕まった。そのとき言われた条件は大半嘘八百だったが、ともかく食えて給料がもらえる。食えればいいと思ってた。乞食になって飢えるより、汗臭い軍服と硬いベッドとパンとスープの食事があれば。銃を撃つこと、銃剣で敵を刺す訓練をすること。そんなことは些細なことだと考えていた。

入った頃はまだよかったと思う。群衆の集まりと小競り合いになることはあっても、危険だと感じることは無かったし、バスティーユに配属になってからは、少ない囚人を形だけ警護しているようなものだった。軍の中にいて、そこだけで生活していると、周りの状況はよく判らない。親や身内はとうに失って、休暇に帰る先も無い俺に、困窮し険悪さを増すパリの空気はかすかに伝わってくるだけだ。
それでも1989年の夏になる頃には、ひりついたものを感じていた。塔の外から聞こえる怒号は激しくなり、何処の隊が民衆と衝突したとか、何人犠牲が出たとか、漏れ聞くようになった。身内のいる仲間は浮き足立った。いつ配属が変わり、民衆の鎌や投石の矢面に立つ羽目になるか分からない。銃口を向けるのは、友人や知り合いかもしれない。そういって逃げ出す奴もいた。つかまって連れ戻され銃殺されるものもいたが、逃亡は後を絶たない。7月になると、配給される食事も少なくなってきた。でも俺は何処にも行かなかった。行く場所が無かったから。他に生きる場所を知らなかったから。

大丈夫さ、ここにはちょっとへまをやった、貴族が数人いるだけだ。兵の人数も少なくて、武器も無い。だから群集がここを襲うことは無い。ここにいればとりあえず食えて安全だと、そう思ってた。俺はとことん馬鹿だ。

7月14日は明け方からの交代だった。塔の上を巡回しながら、徐々に明るくなる空を見ていた。今日も暑くなるだろう。空の色が深い。
それからどのくらい時間がたったのか。見たことも、考えたことも無いほどの数の民衆が、黒く塔の下を埋め尽くしていた。叫び声が空気を震わせ、足元に衝撃が伝わる。どこかに大砲が落ちたのだと知った。信じられなかった。

「指揮官を狙え!」
上官が命令した。俺は舞い上がる埃で眼が痛く、手の汗で滑らせそうになりながら、銃に火薬と弾をつめ終わったところだった。周りは先に撃った兵たちが、後方に下がりごった返している。
「前へ出ろ。早くしろ!次の一斉射撃で指揮官を狙うんだ」
右後方で大音響がして、天井から崩れた小石が降ってきた。俺は銃眼の前まで這いずるようにして出た。一瞬、外の明るさに眼がくらむ。夏の午後、雲ひとつ無かった。
「構え!!」
殆ど無意識に銃を肩に揚げ、右手を添えて固定する。それから目標を確認した。兵や群衆の一番前に立つ、一人の金髪の兵士を。高く掲げた剣と髪に、陽の光が反射している。戦場の土埃の中で、ひときわ輝く金の色。空の青と同じくらい鮮やかで、怒号と悲鳴と怨嗟にまみれた場所にはふさわしくない。引き金にかけた指が震える。

あたらない。きっと俺の弾はあたらない。こんなに距離があるんだ、俺は射撃が下手だ。あたらない、撃っても俺があの兵を殺すわけじゃない。絶対にあたるはずは無いんだ。あたらないでくれ、あたらないでくれ。外れてくれ、外れるはずだ、外れる、外れる、外れて――――――――――
「撃て!!!!」

肩に衝撃が伝わった。弾ける火薬の匂いがした。兵の身体がはねた。二度・・三度。それから・・・ゆっくり、時間が止まったようにゆっくり、倒れていった。揺れる金髪が、太陽の光を映して・・・・眩しい。
「何をしているっ。下がれ!」
誰かに後ろに突き飛ばされた。銃が床に落ちて、俺は空っぽになった自分の手を見つめた。
俺が撃ったんだ。俺の弾が当たったんだ。本当は他の仲間の弾だったのかもしれない。でも俺には、自分の弾があの兵の身体を貫いたとしか思えなかった。俺は軍服の裾で手をぬぐった。それでも足らない気がして、石の床に掌を擦り付ける。何度もこすると、手の皮がめくれ真っ赤になった。指揮官の怒鳴り声、慌しい足音、硝煙と土埃。叫び声が聞こえて。
次の瞬間、頭上でなにかが爆発した。崩れ落ちる瓦礫に前が見えなくなり、頭にしたたかな衝撃を受けて気を失った。

俺は頭と脇腹を負傷していた。数週間後動けるようになってから、病院を抜け出した。この南の海辺の町に流れ着いてから、何年になるだろう。今は漁師の真似事をしている。海の上なら、鹿撃ちの鉄砲の音も聞こえないからだ。南には金髪は少ないが、稀に見かけると身体が硬くなるのが分かる。明け方にうめいて眼を覚ますことはあっても、海にでていれば穏やかでいられる。でもたったひとつ。

夕暮れに染まる空の色を見ていると、咽が詰まってくる。明るい青が、徐々に紫がかって、水平線が金色に輝くとき。俺はうなだれ、膝を抱え、時折嗚咽する。世界の美しさの前に、あの日銃弾に倒れた、揺れて光をはらんだ金髪の、ひとりの兵を思い出す。
太陽が沈みあたりが暗くなるまで、俺は俯いたまま、どこか遠くにいる誰かに対して―――祈りを捧げ続ける。

END