断崖の下

月が踊っている

俺を見下ろしている彼女は、夜空に浮かぶ白い天体を背後にしている。昼の光と違い、少し西に向いた高い窓の影だけを黒く映しだす白い光。その光を背に受けて彼女の髪が踊っていた。陽の下で輝く黄金が、色彩を失った淡い銀になる。彼女が動くたび、なだらかな線を描く胸の輪郭に、髪が影を落とす。白と黒の色彩がゆれて、胸からみぞおちへ、暗闇に溶け込みそうな腰の際まで。熱のない光の下で、熱い声が沸騰していく。どちらが発したか判らないお互いの声が共鳴して昇っていく。

何時の間にか俺が彼女を見下ろして、白く浮かび上がる細い肩を、涼やかな鼻梁の線を、貪りたいと思った。唇の触れたところから溶け出し、お互いの境界が無くなったらどんなにいいだろうか。もう決して、失う恐怖におびえることもない。
手に入れてからずっと、失うのが怖かった。掌にある淡い玉が、はじけて消えるのが恐ろしかった。熱い血の流れる乳房を掴んで恐怖を忘れようとする、ただこの瞬間だけは。今だけ、朝の来ることを忘れ、濁流に瓦解していく国のことも忘れ、お前の存在だけをこの手に掴み取りたい。望んだものがもう決して指の間からすり抜けていかないように。

月が傾く。暗闇に取り残された俺たちは、お互いの汗と熱だけを頼りに、この夜の中を走る。駆けていくその先は切立った断崖で虚空がぽっかりと口をあけていることだろう。それでもいい。二人で駆け抜けていけるのなら、何処へでもかまわない。死ですら二人を分かたず結びつけるだろう。
そう信じられるから俺はこの夜に溺れる。溺れて底へ沈んでいく。沈んでいく間もしっかりと眼を開き、深い闇の底の一条に光に向かって墜ちよう。

そこにはまた、朝の光が待っている。