カノン

雨は厚い外套の生地をとおして染み込んでくる。熱が奪われ、身体が冷えていった。

屋敷につき、彼女が主人へ取り次いでくれるよう頼むと、慇懃で忠実な執事の顔に一瞬当惑の表情が浮かんだ。
「主人には来客中でして」
「では、待たせてもらおう」
「いえ・・それが」
執事が言いよどんでいると、どこかの部屋の扉が荒々しく開く音がした。続いて女の名を呼ぶ、他ならぬ主人の声。走る女の足音。階段から駆け下りてきた女は、外に続く扉の前に立つオスカルに一瞬足を止めたが、俯いて横をすり抜けると外へ駆け出した。

「お待ちください、ただ今馬車を」
「かまわないで!もう二度と来ることは無いわ」
執事が慌てふためいて後を追うと、オスカルはひとり残された。引きずるような足音に顔をあげると、階段の上に男が現れた。
「やあ・・来ていたのか」
「ああ」
「とんだところを見られたな。まあ、あがってくれ」
シャツの前をはだけたまま、憔悴しきった男は手すりに身体を持たせかけている。彼女が階段を上がり男に近づくと、酒の匂いと先ほど脇をすり抜けた女性の残り香がした。
「かなり飲んでいるのか」
「まったく醜態だ。酔って女に振られるところを君に見られるとはね」
自嘲気味に笑いながら、男はオスカルを部屋に招きいれる。

深い息をついて、椅子に崩れ落ちた男をオスカルは黙って見つめていた。何度も訪れた部屋。家具も何も変わっていないが、空気が違う。雨に混じって、酒と花と諍いと諦めの香が漂っている。
「それで、何か用でも」
「伝言を伝えにきた」
グラスに手を伸ばした男の動きが止まる。
「今晩は、国王陛下の友人が来られるので・・・会えないと」
沈黙が降りた。男はグラスに残ったブランデーをいっきにあおったが、その半分は首を伝って落ちた。
「そ・・うか」
男は両手で顔を覆い俯いたままで、それ以上なにも言わない。オスカルも黙って、窓をたたく雨の音だけを聞いていた。

『お前にしか、頼めないのです。オスカル』
オスカルは、この男と同じように肩を震わせていた高貴な女性のことを思い出す。確かに余人にはできないことだ―――罪の橋渡しなど。
彼女は男の手からすり落ちそうなグラスを取ってテーブルに置くと、立ち上がり扉に向かおうとした。その手を突然掴まれる。
「すまない・・オスカル。君にこんな役割を負わすべきじゃなかった」
「・・・謝ってもらうような事じゃない」
「私を軽蔑するか」
「何のことだ」
「他の女性と関係しながら、あの人を泥沼に追い込んでいる私をだよ」

ジャスミンの香りの蒼いドレスの女性。一瞬眼があった時、誰かに似ていると思った。涙に濡れていた空色の瞳が・・確かに似ている。
「さっきの女性だけじゃない・・君も知っているだろう」
扇の陰で囁かれる噂は嫌でも耳に入ってくる。
「あの方の耳に入れば、どれほど嘆かれることか・・わかっているのか」
「・・・・・」
「わかっているなら自重しろ。私が言いたいのはそれだけだ」
外へ出ると雨は強くなっていた。厚い外套からも冷たい空気が身体に伝わる。オスカルは顔を上げ周囲を見渡したが動くものはなかった。青い瞳の女性の影も。

数日経っても地面には湿り気が残っていた。だが低い潅木の陰には、淡いドレスの裾が見え隠れしている。艶を含んだひそやかな声。広大な庭園の隅で繰り広げられるいつもの光景。
オスカルは、前を見たまま通り過ぎるのが常だったが。
「駄目・・・よ。後で」
茂みの影から聞こえるくぐもった声に覚えがあり、思わず足を止めた。気配に顔を上げた女性と眼が合う。
空色の瞳が大きく見開かれ、女の肩に頬をうずめていた男も振り返った。色の薄い金髪と灰色の眼の男。だがそれは。
―――彼ではない
一瞬空気が止まった後、女はオスカルの眼を見つめたまま唇の端をあげ、小さく笑った。

晩餐の後、所用を思い出したアンドレがオスカルの部屋に入ると、彼女は窓辺でブランデーを傾けていた。今日開けたはずの壜には僅かな量しか残っていない。アンドレは眉をひそめたが、オスカルは気づかぬように窓の外を見ている。やがて独り言のように呟いた。
「身代わりなど・・」
「何?」
「恋に身代わりが必要だと思うか?」
「・・・・何故そんなことを聞く」
「答えてくれ」
沈黙が続いた。答えを待っている間、オスカルは外の闇を見つめていた。月もなく風もない夜は、鬱蒼とした木々の影が深い。

「必要なときも・・・ある」
ようやく返ってきた返答はただ一言だった。オスカルは続きを待ったが、アンドレは再び黙り込んでしまった。
「どんな時だ?何故必要なんだ?虚しくはならないのか。髪や・・眼の色や。どれほど似ていても、所詮違うものなのに。欲しいその人ではないのに。手に入らないからといって」
「お前は知らないから」
「何を?!」
オスカルは弾かれたように立ち上がり、眼を逸らしたままの幼馴染の前へ詰め寄った。肩をつかんで揺さぶり、自分の方を向かせる。
「私が何を知らないんだ?知っていれば分るのか。彼が・・・あの女性が、身代わりを必要とする理由を」
―――それが私ではない理由を!
最後の声は言葉にならなかった。声になる前に咽で止まってしまい、そのまま出てくることはなかった。だがアンドレは、青く燃えている瞳を見上げて、彼女の声にならない声を聞いていた。
数日前、オスカルが雨に濡れて帰ってきた日、厩舎で彼が声をかけても気づかず通り過ぎていった。彼女の心がどこにあるのか、聞かずとも分っていた。だから彼は、そのまま馬に鞍をつけ出かけていったのだ。ほんのひと時の気晴らし、慰め、逃避。腕の中で声をあげる金髪は彼女とは違う。眼の色も膚も。それでも、束の間の温もりがあればよかった。女の眼は閉じていて、瞳の色は見えないのだから。蝋燭の明かりの下の髪が、一瞬誰かの面影を映すだけで。

「知っていれば、理解できると?私には・・・・判らない。どれだけ考えても」
「知りたいか?」
「教えてくれ、何が」
足らないんだ?そうオスカルは聞こうとして、声を出せなかった。彼に突然、抱きすくめられたから。
「・・アンドレ」
力強い腕で息もできないほど抱きしめられている。驚きと困惑でもがこうとしたが、全く動けなかった。
「お前が知らないのは・・・・これだよ」
――――抱き合うこと、絡み合うこと。硬く眼を閉じ息を荒くして。上りつめて溶け合って弾けて、沈んでいく。膚に刻まれた記憶が人を惑わせることを、お前は知らない、気づきもしない。だからそこまで残酷になれるんだ。

背中の線を辿って腰へ降りていく掌に、彼女の震えが伝わる。
「手に入らないなら・・一時のぬくもりでも欲しくなる。届かないものに焦がれて疲れ果てたときは、自分をごまかすのがたやすい」
「だから・・?」
「こうしているのが、お前の望む誰かだと思えばいい。眼を閉じて、熱だけ感じていれば・・・」
言葉が終わると、唇が耳元から首筋へと辿っていった。部屋は冷えきっているのに、回された腕と、彼の息が熱い。オスカルの身体から徐々に力が抜けていった。
―――寒い・・熱い、息が苦しい。声が出な・・・・。
長いキスから開放されると、オスカルの膝が崩れて、彼らは床に倒れこんだ。背中に床の冷たさが伝わったが、重ねられた身体は重く熱かった。
――――誰もがこの熱を必要としているのだろうか。腕の中の空白に耐え切れなくなったとき・・・誰でもいいから、抱きしめて髪を撫でる掌があればいいと

柔らかな髪が頬にあたり湿った息が首筋にかかる。背中に回された腕が暖かい。掌が頬を包んで、瞼の上に唇が降ろされる。オスカルは冷えきった身体に熱が沁みこんでいくのを感じていた。
―――暖かい・・・暖かくてとても・・懐かしくて
アンドレが手を止めて顔を上げると、掌が濡れていた。閉じたままの瞼から、暖かいものが流れ出している。
「・・・・・違う・・んだ」
「オスカル」
「違う・・・そうじゃない。もっと冷たかった、彼の手は・・・・触れられたところが凍るほど」
アンドレはオスカルを見下ろしたまま動けなかった。彼女は両手で顔を覆ってしまい、指の間から露が零れ落ちていた。
「彼じゃない・・・お前はお前なのだから・・・・違う」
夜の雲が途切れたのか、窓枠に切り取られた月光が差し込み、部屋を照らしている。
「そうだ・・俺は違う。お前の」
―――愛する者じゃない
アンドレは身体を離すと、彼女の両手をそっと取って、濡れている頬をぬぐった。

庭に出たアンドレは空を仰いだ。眼の端に明かりの消えた南の窓が見える。
―――眠ったのだろうか
夜風に晒された身体からは、先刻確かに腕の中にあったはずの温もりは消えていた。ほんの一時、腕にとどまりすぐにすり抜けていく熱。手に入れられるかと思ったものは、やはり幻だったと思い知らされる。
―――束の間のぬくもりが消えてしまえばもっと寒くなるだけ。お前はその空しさを知っていて・・だから求めなかったんだろうか。本当に欲しいものが手に入らないなら、ひとり凍えている方が

冬の初めだというのに咲き遅れ、うなだれた薔薇が寒さに凍っていた。彼は身震いして自らの腕を抱く。いつの間にか吐く息は白くなっていて、指先の感覚が徐々に無くなっていった。それでも彼は窓を見上げたままそこから動けなかった。
やがて窓の明かりが消え、墨色の空の厚い雲が途切れて薄い月光が庭を照らしだす。
「おやすみ・・・・・オスカル」
届くはずのない小さな声で呟くと、冷えきった自室に戻っていった。

END