ある喪失者の日記

眼が覚めたのは早朝だったと思う。あたりはまだ薄闇に包まれていて、暫く夕方かどうか迷ったが、徐々に明るさが増してきたので朝だと知れた。冬なのか微かに吐く息が白かった。感覚が目覚めていくのと同時に、身体中に痛みがあることに気づいた。手を動かそうとすると肩に痛みが走る。

---ここはどこだ
真っ先に考えたのはそのことだった。飾りのある天蓋、横を向くと枕元で纏められた帳が眼に入る。顔の上に差し出した左手には包帯が巻かれている。
私は怪我をして寝台に横たわっているのだ。そして今は朝だ。周りには誰もいない、音もしない。それは判る、それだけは判る。だが。他の事は何一つとしてわからない。ここはどこだ。

やがて扉の開く音がして、一人の女性が部屋へ入ってきた。そっと音を立てないように近づいてきたのが、私が起きていることに気づいたのか寝台の横に走り寄ってきた。私の額に手をあてて涙ぐみながら、私が回復したと神に感謝をしている。
---誰だろう
女性は怪訝な顔をした。誰かの名を呼びながら”判らないの?”とほとんど悲鳴のように繰り返した。女性は部屋の外へ駆け出していき、次に大勢の人々がやってきた。知らない人ばかりが。

彼らは同じように問いかける。父親、母親、乳母・・皆、私のその人達との関係を私に向かって話すのだが、私にはまったく判らない。医者がやってきて--人々の態度から彼が医者だとはわかった。言葉もわかる、こうしても文字も書ける。失われているのは私自身の記憶だけだった--安静を言い渡したため、周囲はようやく静かになった。そのときにはもう午後になっていて、私はぐったりと寝台に沈みこんだ。

それから、たぶん少し眠っていた。扉が静かに開く音に続いて、誰かのひそやかな足音。私は目を開けた。背の高い男が一人傍らに立っていた。私たちは見つめあったが、彼は黙ったままだった。何かを待っているかのように立ち尽くしていたが、やがて横の椅子に腰を下ろし、上掛けから出ていた私の左手をそっと握った。彼の腕にも包帯が巻かれ、私と同様に怪我をしていた。
痛まないのだろうか、そう思い、彼の左眼が髪に隠れたままの顔を見上げる。彼は俯いたまま、握った手に力をこめた。冷えた指先が次第に温かくなり、身体の奥から何かがこみ上げてきた。
私は目覚めてから始めて、泣いた。

二日目。私の前には婚約者だという男がいた。この男も同じ言葉を繰り返す。判りませんか・・思い出しませんか。私の名前、私の出自、育ち方、仕事。様々な人が様々に語りかける。私はそれを信じるしか術を持たず、疑いを挟むことはできない。確かにそこには一人の人間がいたのだ。由緒ある将軍家の末子として、男として育った。軍隊で生きてきたが、婚約とともに軍を退くことになっていた。私の知らない誰かの人生。その誰かは目の前の婚約者を愛していたのだろうか。

見覚えのない部屋、名前もわからない人々。一人になった私はふと左手を上げて、昨日の温もりを思い起こしていた。手を離し立ち去ろうとする彼の背中に、私はためらいながら名前を聞いた。彼は振り返って短い名前を教えてくれた。
私はもう一度その名前を口にしてみた。小さな声で何度も呟いた。耳に届く名前は繰り返されるごとに、新しい記憶となって刻まれる。

三日目になった。起きる度に、これまでのことがすべて夢で、私は私の記憶を取り戻しているのではないかと考える。幼いときから剣の練習は欠かさず、王太子妃が輿入れするときに近衛に特別入隊したこと。昨年自分の意思で衛兵隊に移り、数日前暴動に巻き込まれたこと・・・・・。だが、なにひとつ思い出してはいなかった。私は人から聞いた記憶を辿ろうとするが、自らの中には何も無い。空のままだ。

彼に会いたかった。もう一度、黙ったまま手をとっていてくれれば。空洞になった身体の中が少しでも満たされるのに。

私は包帯を換えている年嵩の侍女に、彼を呼んでもらうよう頼んだ。侍女は当惑した顔で、来るかどうかわからないと答えた。何故。私は侍女と入れ違いに入ってきた母--そう教わった--にも彼のことを尋ねた。
彼は私の護衛であり友人だったという。7歳のときに出会ってからずっと私を守る為に傍にいた。だがその役割は私が婚約したことで、もうすぐ終わるはずだった。私たちは共に暴動に巻き込まれ、彼は自分がいながら私が怪我をしたこと、記憶を失ったことで、自分を責めているのだと。

母はまだ何か言いたげにしていたが、それ以上語ってはくれなかった。私は母の腕を取り、それでも彼を呼んで欲しいと、彼に会いたいと、伝えた。母は暫く私の顔を凝視していたが、やがて頷いて部屋を出て行った。

眼が覚めたのはまた早朝だった。もともと眠りが深く短い性質なのだろう。傷の痛みも少し和らいでいる気がする。起きてみようと思った。上半身を起こして上掛けをめくり、寝台から足を下ろす。ここまでは大丈夫だ。支柱を支えにしてゆっくり立ち上がる。右足が痛かったが歩けないわけではない。痛む場所に力を入れないようにそっと歩いて、掃きだし窓の前まで来た。外はもう明るく、どこからか鳥のさえずる声もする。私は窓に身体をもたせ掛けた。ガラスのひんやりした感触が頬に心地よかった。

窓の外には晩秋の木々が赤く染まり、朝靄の中に霞んでいた。知らない庭でも、静かな朝の光景は心が休まる。このまま、記憶が戻らないまま何年もここで過ごせば、馴染んだ懐かしい景色になるのだろうか。両親と・・夫と・・平穏に暮らしていけば、いつか失った過去も取るに足りないものになるだろうか。私は頭を振った。

婚約者だという男性は昨日も訪れた。母が部屋を出てからすぐ訪問が告げられた。優雅な物腰と優しい声。眼差しから、彼の私に向ける愛情は感じられる。婚約者は、私が回復するまで結婚を延ばす事を話し、私に手をとってそっと口づける。だが私は、触れる手に違和感を感じた。なにかが違う。

”私”は何を考えていたのだろう。誰を愛し、誰を憎み、何を生きる糧としていたのだろう。私は私に問いかけた。お前は誰だ?お前は何者だ?頬をあてたガラスに映る顔。こんな女性など知らないというのに。

眼下の庭に誰かの気配がした。顔を上げると、長身で黒髪の男が一人、庭を横切ろうとしていた。急いで窓を開け彼に呼びかける。彼は驚いて私を見上げた。私は彼が屋敷の中に駆け戻り、部屋に飛び込むようにして入ってくるのを待っていた。彼が来る。私の元へ。

私は椅子に座りこれを書いている。言葉を忘れていないとは不思議なことだ。医者は、記憶は突然戻るかもしれないし、永久にこのままかもしれないと言っていた。答えは神にしか判らない。神という観念も覚えている。目の前にあるのは濃い珈琲で--運んできた乳母はあまりいい顔をしなかったが、ブランデーよりはましだとこぼしていた--この香りも味も、違和感は無い。多分、怪我さえ癒えれば、生きていくうえで不自由なことなど無いのだろう。

それでも、私には他の何かが必要だった。胸の中の空洞、夜眠るときと目覚めるときの身の置き所の無さ。何かで埋めなければ、どうして立っていられるのか。

ノックの音がして、彼が入ってきた。昨日約束したとおり。彼は私の馬のことを話してくれる。二階の私の部屋の窓を覆うばかりに広がった樫の木で、昔私が彼に仕掛けたいたずらのことも。彼がこの屋敷に来たとき、樫の木は彼の背丈と同じくらいだった。幼くして親を失い、唯一の身内である祖母を頼ってここへきた。それからずっと、私たちが共にあったことを。 そこまで話すと彼は黙り込んでしまった。これまでは共にいられた。だが・・・・これからは?

私は卓の上に置かれた彼の右手に手を伸ばした。その手は微かに震えたが、振りほどかれはしなかった。私はあの日の彼のように、黙ったまま手を握っている。生きていくのに不自由は無い。だが不可欠なものが確かにある。それは。

私は彼を探していた。傷の痛みなど感じもしなかった。部屋から駆け出し、彼の名を呼んだ。どこにいる?

午後になって、父が部屋へやってきた。重たげに椅子を引いて腰かけ、これから私は如何するのかと尋ねた。記憶は戻るかどうか判らない、もし戻らぬままでも結婚して平穏な生活をおくって欲しいと。父は静かにそれだけを話した。
私は幼い時この人を見上げていたはずだった。その頃には、目元の深い皺も無く声は良く通っただろう。だが目の前にいるのは、娘の人生を捻じ曲げたことを悔やんでいる初老の男。部屋を出ようとする父に、私は答えた--私は自らの心に従って生きたいと。それを聞いた父の目元がふと緩んだように見えた。

私の心はどこにあるのだろう。記憶は無くとも、私は私として存在する。私は男の名前を持つ女性のことを考えた。部屋を見渡せば彼女が生きてきた数十年が感じられる。ここで生まれ、母や姉に囲まれて育った。黒髪の少年と一緒に、大人の世界へ歩みだした。成長し愛し悩み考え・・その間中ずっと彼が。私は眼を開けた。止めていた息をゆっくり吐き出し、窓の外の揺れる樫の木を見る。
---お前は見ていたんだろう。だから知っているだろう。私が・・彼女が、真に望んでいたものを。

その時大きな音が響いた。ガラスの割れる音。人の悲鳴。私は一瞬凍りつき、椅子を倒して立ち上がった。

彼はどこにいる。彼の姿が見えなくなった・・暴徒に巻き込まれてもう声も聞こえない。傷ついているんだ・・助けなければ。早く。
階段の上から名前を呼んだ。返事が無い。彼の部屋はどこだろう。知らない、判らない。外は?彼は確か、私の馬を大切にしていて。 庭を横切り、東屋の角を曲がると厩舎が見える。落ち葉に足をとられながら、どうやって辿り着いたのか。切れ切れの息の下から呼ぶと、彼は驚いて振り向いた。私は駆け寄ってきた彼の腕に崩れ落ち、意識が遠のいた。彼が私の名前を叫んでいる。

--静かだった。物音ひとつしない。辺りは白く霞んでいて、私は霧の中に浮かんでいる。やがて何かに強く引き寄せられ、ゆっくり沈んでいく。

眼を開けると彼が私の手を取っていた。蝋燭はとうに消えていたが、暗闇でも彼の表情は見える。眠らずに私の傍にいたのだろうか。私はもう片方の手を彼の手に重ねた。暖かい。見知らぬ人々に囲まれた見知らぬ世界の中で、これだけが私に必要なものだった。

「アンドレ・・」
彼は顔を上げた。
「傍にいてくれ。何があっても・・決して離れないで。私の傍に」
「・・・・・・ああ」
「必ず」
「・・約束する」

風が出てきたのだろうか。樫の木の枝が窓を叩く音がする。私は彼の眼を見つめ返しながら、次第にまた眠りへと落ちていった。
--少し眠ったほうがいい。
彼の声が遠くなる。もうひとつ、伝えなければならない。あと・・ひとことだけ。

私は青い表紙の小さなノートを机においた。天井を見上げ、風の音に耳を澄ます。知らない女性の短い日記。

目覚めたとき、アンドレが私の手を握ったまま、傍らの椅子で眠っていた。彼も怪我をしているはずなのに、こんな無理を。そう思って呼びかけると、彼も目覚めた。それから母上とばあやがやってきて、私に問いかけた内容は良く判らなかった。すべてはっきりしたのは、ラソンヌ医師が来てから。
私はおよそ一週間、記憶を失っていた。その間のことはまったく覚えていなかった。周囲は回復を喜んでいたが、失われた一週間のことを、進んで語ってくれる人間はいなかった。私の中で欠落したままの数日間。無言の思いやりの中で、何があったのか尋ねることも憚られ、やがて怪我は癒えていった。
寝台横の小卓の引き出しに、それを見つけたのは偶然だった。何気なしに開くと見覚えのある文字が並んでいる。だが書かれていることに覚えは無い。いぶかしんで、椅子に座りなおし読み始めた。

---私は私を知らない。だが私は私を知っていた。
記憶という拠りどころを失ったもう一人の私は、足場の無い世界の中で、確かなものを見つけた。私が蓋をし鍵をかけ、気づかぬ振りをしていた核心。私が畏れから眼をそらしていたものを、彼女は見据えていた。日記の中の女性は私よりずっと強く、正しい。

日記は眠りにつく前で途切れている。彼女は--私は--彼に告げたのだろうか。本当に伝えなければならない、ひとことを。
私は庭に下りて、樫の木を見上げた。すべて葉が落ちた周囲の木々の中で、深い緑の葉が風に揺れている。幹にもたれていると、落ち葉を踏む足音が近づいてきた。
彼に今から告げよう。手をとり、黒い瞳を見つめて。

「・・・アンドレ、お前を」

END