遠ざかる足音

あの子の足音が遠ざかっていく

あれはきっと、そうね。多分七歳のころ。剣の稽古ばかりしていた。あのふたりは広い庭の隅から隅まで知っていた。いつも・・・を泣かせてばかりで。何時だったかしら、どうしよう、彼が東屋の屋根から落ちた、怪我してるって屋敷に駆け込んできた。お医者様が来るまで泣きはしなかったけれど、私のドレスの裾をぎゅっと握って離さなかった。その夜はずっと階上の部屋にいて、ばあやも怒ることもできず困っていたわね。
初めて白い軍服に身を包んだ時も、あの子は誇らしげで、でも少しだけ不安そうだった。門を出るとき、あの子は振り返りもせず行ってしまったけれど、後ろに付き従っていた彼が、見送っていた私のほうを振り返って微笑んでくれて、私は安堵した。彼が一緒にいるなら・・。

あの子はいつも与えられた期待以上の人間であろうと、私や夫が負わせてしまったものの重さを感じていないような顔をして。近衛を出て衛兵隊に移った時も、あの子がどれほどのものを抱えているのだろうと私は恐ろしくなった。私達が見ている旧い世界ではなく、あの子が見ている先はまた違うのだと知った時、寂しさと共に、あの子が受けるであろう試練と苦しみに胸が痛んだ。でも私はそれを背負うことも軽くしてあげることもできない。ただ祈り、見守ることしかできなかった。火にまかれる国より何より私はあの子だけが心配だった。細い体で瓦解の渦に飛び込もうとする娘。あの子が生まれた時、何があっても守っていれば。そうすれば、あの子は安全な処にいられただろうに。

あの嵐の日。夫が・・娘を手にかけようとして、その後は私も夫も生きてはいないだろうと、そう覚悟したけれど。私も夫もあまりに愚かだった。私達は何一つ変わっていなかった。命を絶ったとしても、あの子の信じるものが終わるはずなど無いのに。その時彼が止めに入った、命を懸けて。人を愛するのに身分も資格も必要なのかと。そう静かに語る彼の向こうで娘が見つめていた。夫ではなく、彼だけを。

・・違っていたわ。私は間違えた。あの子は誰かの羽の下にいるような、そんな道など望んでいなかった。自分の足で歩いて行った。その足元に亀裂が入り、道の先には炎が燃え盛っていたとしても、怯まず進んでいった。怖れはきっといつもあったのだ、竦んでしまい立ち止まって逃げたい時も、でも。あの日の朝。これまで幾度となく聞いていた、足音と全く変わらなかった。

彼がいたから。
どのような道であれ、ひとりではなかったから。

私はあの夏の日に祈っていた。あの子が私を含めた旧いものに掬い取られず、私の手を遠く離れて、誰よりも遥かな場所へ行けるように。そして、かたわらにずっと彼が、いてくれるように。あの子は歩いて行った、振り返らなかった、彼も。あの子たちは明日の家へ向かうのだ。

足音が遠ざかっていく。何度この足音を聞いただろう。誰もが、きっと死の床で聞いているのだろう。そして私自身も遠くなっていく。私の足音を聞く人がいなくなっても、全て消えてしまっても。あのふたりが、私の愛しい娘と娘が愛した青年とが、確かな足取りで進んでいった、その先へ私は辿り着けなかったけれど。

それでもいい。遠ざかる足音は旅立つ羽音だったのだから。遠くなる・・遠く・・なっていく、明日への足音が--。

 

END