フェティシズム考現学

その手紙は、ほんの数行書かれているだけだった。
『彼女の“腕”を手に入れたよ』
そんな馬鹿げた事があるものか。
『君に見せたい。来てくれないか』
まさかそんなことが・・・。
“彼女”には何も変わったところなど無かった。いつもどおり、近寄り難いほどに凛とした姿のままで。勿論、腕が無くなっていることなど無い。ある訳が無い。
この手紙は悪戯好きの友人の独特なアイロニーなのだろう。昔から、一風変わった男だった。本気なのか冗談なのかわからない行動をする。

遠縁にあたり士官学校に同じ時期に在籍していたこともあって、よく知った仲だ。狩りの腕は一流で、狐を追い詰めるのが誰よりも上手かった。何かを追い立てているときだけ、生きている実感があると話していた。ただ追い詰めるのは狐だけとは限らない。難攻不落な女性もまた対象だった。

「ただ女性は狐ほど駆り立てられない。何故だろうな」
「貞淑の鏡といわれた公爵夫人を落としておいて、その言い方は無いだろう」
「陥落させてしまえば、あとには熱など残らない。狐はその点、まだましだ。血と毛皮で確かに自分が仕留めたと実感できるからね」
「そんな風に女性を狙うだけの対象にしていると、いまにしっぺ返しを喰うよ」
「ヴィクトール、君には僕のような嗜癖はないからね。女性を愛する対象として見られる。美しい恋愛だ。僕は心から羨ましい」
「皮肉か」
「いや、本心だ。それほどまでにひとりの女性に捕われるのが、幸か不幸かは分からないが、僕には決して持てない性質だから」
「羨むほどのものじゃないさ、しょせん片恋だ」
「片恋でいながら、恋を持続させるだけの情熱がある。真摯な姿勢もね。誰もが持っている資質じゃないよ。自信を持つべきだ。生まれついての貴公子で、人好きのする外見と教養と実力。彼女が振り向くのに充分過ぎるほどだ」
「だがそれも・・」
「自信が無いのか、君らしくもない。遠くへ行った男を想っている女を振り向かせることが出来ないとでも」
「問題はそこだ。彼女の想い人は戦争が終わったというのに、一向にその生死すらわからない。愛する者が生きているか死んでいるかすら知りえないというのは、ひどく苛まれるものだよ。彼女を見ていれば判る」
「そんな状態に付け込みたくないと言う訳か・・やれやれ」

友人は“処置無しだな”という表情をしてグラスを口元に運んだ。仮に手練手管を使って手に入れたとしても、彼女がアメリカに渡った男に心を残している限り、恋には拭えない染みがついていることだろう。あの男が生きて帰ってくるまで、彼女は決して彼のことを忘れない。そういう女性であることもよく知っている。

「君をそこまで悩ませる彼女も罪なものだ。彼女自身は罪や背徳などとは無縁な顔をしているが、その分だけ彼女の周りの男達は苦しみを舐める」
「・・男達?」
「凍った花を崇めているのが、君だけだと思っているのか。例えば」
「例えば・・誰だ」
「そんな怖い顔をしなくとも、君の知らない男だよ。私が面倒をみている画家だ。サロンで彼女を見かけて、その場で恋に落ちたらしい」
「画家ね・・」
「その日から熱病にとりつかれたようだ。狂ったように彼女の絵ばかり描いている、まさに彼にとってはベアトリーチェだな。一度絵を見てみるかい、なかなか興味深いよ」
「遠慮しておく」
「人は恋をすると、対象自身ではなく、自分の投影した影を愛しているのだとよく判る。その画家の中で彼女は刻々と姿を変えていく。やがて彼女自身とは似ても似つかないものになるだろう」
「・・・私もそうだと言いたいのか」
「彼女を君の中で理想化している限りはね。あまり構えずに彼女に告白してみたらどうだ。君がそうやって躊躇している間に、事情に頓着しないものに攫われるかもしれないよ。狩りの獲物は座っていては手に入らない」
「彼女は獲物じゃない」
「・・どうかな」

その暫く後で、友人の屋敷を訪ねたとき件の画家に会った。サロンの中、他の人間にも話題にも興味なさげな風で、何処か遠くの一点を見つめていた。そして時折奇妙な笑みがその口元に浮かぶ。私には画家の頭の中が透けて見えるようだった。この背中が少し曲がった縮れ毛の男は、此処にいないも同然だ。頭の中で作り上げた何処か違う場所で彼女と会っているのだろう。私が顔をしかめていると、いつの間にか友人が隣に来ていた。

「気になるかい」
「妙な男だ。あまり・・いい感じは受けない」
「君の恋敵だという点を除いても、まあ人好きのするタイプじゃない。だが腕は一流でね。居間に飾る絵を描かせたいんだが、今はあの状態だ。彼女以外は描く気がしないらしい」
「なぜそんな男をサロンに連れ出しているんだ」
「君に会わせたかったから」
「悪趣味だ」
「気になるんだろう、話してみれば良い。面白いかもしれないよ」
「馬鹿なことを」

画家はまるで自分ひとりが違う次元にいるかのように、薄ら笑いを浮かべたまま窓の外をぼんやり眺めている。彼女自身とは全く似ても似つかない、頭の中だけにある彼女。それはいったいどんな姿をしているのか。興味が無いと言えば嘘だった。私もそんな風に彼女を捉えているのだろうか。自分の中で作り上げた幻影に恋しているだけなのか。そんなはずは・・・。

「窓の外に何かあるのかね」
「・・・・え?ああ、失礼。考え事をしていたもので」
「画家だそうだが、どんな絵を描いているんだ」
「これまで描いた絵など、私には何の価値もありませんよ。私は常に、今描きたいものにしか興味が無いので」
「それはどんな」
「手です」
「手?」
「蝋細工のように滑らかな皮膚、透けて見える静脈、咲きかけの蕾色の爪、袖飾りから覗く細い手首、その内側の血が打つ脈。そういったものです」

画家の顔は次第に赤くなり、声に熱がこもってきた。目線は宙に浮き、ここに全く存在しない者を見ている。私は胸がざわついた。この画家が今見ているものは何だ。彼女であり彼女でないもの。頭の中で繋ぎ合わせたパーツ、壊れたマリオネットの人形のような。
背中に汗が流れた。男の持っている毒の空気を吸って、全身が痺れてくる。

「・・・それはいったい・・誰の」
「おや、顔が青ざめておられるが、ご気分でも」
「私の顔色などどうでもいい!今言ったのは誰のことだ」
「一人の女性です。最初はそうでした、彼女全体だった。結いも染めもせず肩にこぼれ落ちる金髪や、伏せられた長い睫毛、白磁の頬、そしてあの・・瞳。そういったもの全体だったのが、やがて収縮されてひとつの手だけになってしまった」
「・・・」
「彼女がサロンを辞去する時、手袋を・・卓から取り上げ、はじめは左手に・・嵌めて。指の一本一本を確かめるように・・・やがて手袋がすっかり両手を覆い尽くしてしまうまで・・・・私は息すらできなかった。私の眼は、彼女の掌にある薄いほくろも、手袋の表面を撫でた時の優雅な関節の動きも、何ひとつ見逃さなかった、それからはもう、私に昼も夜もありません。眼の中に、彼女の手が・・・・・・何度でも・・・・」

私は大きな音を立てて椅子から立ち上がり、驚く他の客人も無視して部屋から足早に出ていった。友人が私を引き止める声が聞こえたが、そのまま馬車に乗り込み屋敷を後にした。帰ってからも、画家の上ずった声や恍惚とした表情が、脳裏に刻み込まれて離れない。私は苛立ち、強い酒を煽った。そしてその晩夢を見た。

まだ油の匂いのする絵を、友人が大事そうに抱えている。
“やっと絵が出来上がったよ。素晴らしい出来だ。居間に飾ろう”
絵が暖炉の上に飾られた。小さな絵だった。金を打ちつけた額縁に入った絵は、血のように赤い背景に、片手が浮かんでいるものだった。肘から先だけの腕が、何かを探るように上に向かって差し出されている。赤地に腕の白さは禍々しいほどで、薄く描かれた静脈は脆い皮膚のすぐ下で脈打っている。私は夢で叫んでいた。
“その絵を飾るのは止めろ”
“何故だね”
“見て判らないのか。切り取られた肘から血が流れているじゃないか。だからそんなに赤いんだ。彼女に返さなくては”
“君が欲しいと言ったから描かせたのに・・欲しかったんだろう。これは彼女だよ。受けとりたまえ、君のものだ”
“要らない”
“欲しいだろう・・・欲しいでしょう・・・貴方だって私と同じですよ・・・”
“違う・・・違う違う違う!!”
友人の顔はいつの間にか画家に変わっていた。声が延々と鳴り響き――――。
目覚めると、嫌な汗をかいていた。

それから、暫くして友人からの手紙が届いたのだった。彼女の腕・・夢の片鱗を思い出して、私は身震いした。

「あの画家はもういない。イタリアへ行ったからね」
「何故だ、絵は完成してないのだろう」
「そうなんだが、面白い男だったからかまわないさ。それに君と仲たがいしたままでいたくなかった」
「私は別に」
「あの男がいては、君は心穏やかではいられないだろうからね。ああいった男は奇妙な鏡のようなもので、人の一部分を拡大して歪んだ像を映してしまう。人が忌み嫌うのはその点だ。だからこそ才能があるともいえる」
「君に対してもそうだったと」
「・・・・・いろいろと面白かったよ。似かよった面もあったから傍に置いておいてもさほど不快じゃなかった。だが潮時というのもある。あの男もそれがわかって、自分から外国に行きたいと言い出したんだ」
「あの男と君が似ているのか?」
「まあ、その話はもう止そう。自分の暗い面はあまり直視したくないものだ。腕のことさえ片付けば、忘れてしまうに限る」
そういって友人は立ち上がり、別室から漆塗りの細長い箱を持ってきた。私は訝しんだ。画家の男が残していったものなら絵ではないのか・・まさか。手渡された箱はずしりとした重さがあり、私はその重量を感じながら暫く躊躇した。友人は暖炉の炎を片側にあびながら、黙って見ている。蓋を静かに開ける手が小さく震えた。

「・・・・・これは・・」
「言葉どおりだよ・・腕だ」

艶のある黒い箱の中に、白い左腕が入っていた。肘から下の女の腕。青白い肌の色、透けた血管、それを覆う金色の産毛。その全てが再現されていた。“それ”はまさしく彼女の腕だった。何かを掴もうとするかのように、心持ち曲げられた指は、動かないのが不思議なくらいだ。
冷たい体温のない蝋細工。客観的に見ればただそれだけの、奇妙な意匠。だが私にはそれが生きて脈打っている彼女自身に見える。その桜の爪に口付けして、手首から肘にかけて舌を這わせたい。その肌は、口で触れると少し塩辛いだろう。私は唾をのんだ。
これは歪んだ男が作り出した幻影だ。彼女自身ではない、あるはずがない。それなのに・・・・・。

「あの男は絵を全部焼いていった。残ったのはそれだけだ。君に見せた後は・・自由にして良いと。溶かそうが埋めようが、君の思うとおりにしてくれと。そう言っていたよ」
「・・・・・何故。君が話したのか」
「私は何も言っていないよ。彼は察したんだろう。君とあの画家が、求めているものが同じだとね」
「同じ?」
「そうだ。求めているものは彼女の幻影だ。心の中のファントムは、決して彼女自身ではない。幻を追いかけている限り、満たされることのない欲求を永遠に抱いているだけだと」
「幻影・・・そうなのか」
「誰かを。他者をまるごと手に入れることなど、それこそ幻想だろう。身体を手に入れても、心まで全て自分のものになるのか。体も心も手に入れたと思っても、所詮別の人間だ。溶け合うことも、真に理解しあうことも無い・・幻だよ。僕は蜃気楼は追わない。あの画家も、結局はそれに気づいて、全て捨てて旅立った。今度は君の番だ・・どうする?」
「何を?」
「その腕だ」
「・・・・・」
「君の自由にして良い。捨てようが、手元において・・彼女の身代わりにしようが、かまわない」

私は改めて手の中の蝋細工を見つめた。これは彼女なのか。私が抱いている幻影そのものなのか。私が追っているのはいったい何だろう。彼女が欲しい・・手に入れたい。赤く石榴のように光る唇にキスを。陽光に融ける金髪を指に絡めて。細い腰を抱き寄せ、体温を腕に感じたい。そしてそれ以上に。
彼女の心を自分で満たしたい。彼女の揺れる瞳が見つめるものが、私だけであって欲しい。

 

私が欲しいのは――――――――手に入れたいのは。

 

私は熱を投げかけている暖炉に近づき、一瞬躊躇った後、腕を炎の中に投げ入れた。蝋は瞬間元の形を留めていたが、瞬く間に溶け出してきた。燻す音とともに、奇妙なことに部屋に花の香りが立ち昇る。
「あの画家は、君がこうすることを知っていたらしいな。蝋の中に香料でも入れたか。最後まで、食えない奴だった」
「素晴らしい芸術品だが、私にとっては意味が無い。私が欲しいのは彼女自身だ」
「君はあの画家より驕慢だな。彼女の全てを手に入れると可能だと思っているのか」
「生憎、恋に狂っているのでね。欲しているのは何処か一部分などではなく、生きて熱い息を吐いている彼女なんだ。彼女の髪も胸も、心も、魂も、まるごと欲しい。この腕の中に抱きとめて、離れずにいたい、溶け合ってしまいたい・・・・・そう願わなければ、恋情とはいえない」
「恋情か。僕には理解できないが。それが、少し寂しくもあるよ」
「恋など、知らなければそれに越したことは無い。私も恋が来ることを知っていたら、遠い国に逃げ出していただろう・・そこまで利口だったらの話だが」
「あの画家は、逃げ出すことが出来たかな」
「どうかな、執着は魂の問題だ。距離と時間が味方することはあっても、逃げ切れるかどうかは・・誰にもわからない」
蝋はもうすっかり溶けていた。暖炉の中で燻りながら、甘い香りを名残に漂わせている。私はその香を吸い込んだ。恋の香り。私の執着は多分死ぬまで終わらない。

「ジェローデル大尉。今日は先に失礼する」
陽光の午後。彼女が光を纏って馬上にある。私は眼を細め、その姿を追う。声を反芻し、金色の髪のひとすじまで目の裏に焼き付けられるように、瞬きすらしない。私は追うのを止めないだろう。
彼女を手に入れる日まで・・いや、手に入れてからはいっそう。

 

 

END