小鬼

夜の底辺りで、ひとりで開けているワインの瓶が空しくなると「それ」はやってくる。私の傍らにはいつも「彼」がいるが、彼がいない時に「それ」は来るのだ。グラスの底に溜まった澱のなかから沸きいで、”久しぶりだね”とばかりに笑う。決して相手を慰める笑いではない。
時に「それ」は、かの「誰か」の顔を映して見せ、”君が会いたかったのはこの男だろう” ”手を伸ばしてみたらいいじゃないか” ”触れたいくせに” 笑いながら揺らいでる。

うんざりしているとノックの音がして「彼」が入ってくる。彼がくると「それ」は消える。霧散して影すらなくなってしまう。しかし彼にはその気配が判るのだろう。少し眉をひそめて澱んだ空気を払うために窓を開ける。夜風が入ってくる。

私は不思議だった。何故彼が来ると「それ」が消えるのだろう。私がいくら追い払おうとしても、部屋の片隅でからかうように現れては消え、また背後に立ったりするだけ。ただ彼の足音がすると、ばつの悪そうな顔をしてすぐ姿を消す。何か彼に力でもあるのか?

彼に訊いてみた。夜の暗がりにいる小さな「それ」を見たことがあるかと。彼は知っていると答えた。私が見たものと同じではなくとも、良く知っていると。
ただ「それ」はお前といると消えるんだ、この部屋に来るまでは、足元にまとわりついている。でも私の部屋に入ると消えてしまう。

面白いな、お互いがお互いの--鬼--を消すことが出来るんだ。私達は笑った

そしてひとたび「鬼」と名付けてしまえば「それ」はもう現れなくなった。グラスを傾けながら夜の暗がりに目を凝らしても「それ」はいない。私と彼はもうその正体を知っているから。「それ」から眼を逸らさないでいれば「それ」は消える。

私達はもうそれに脅かされない。それを名付けそれを見据えそれを-鬼-を我が物とすることで、暗闇は怖れるものでなくなる。私達は今日もワインの底を見る。そこに小さな己が踊っているのを飽かず、眺めている。

 

END