青の世界

此処はどこだろう

地面はなく空もない。風も匂いも音も色もない。ただ---無だ。いや、なにかある。手の中に小さな灯りがある。掌を開いた。今にも消えそうなかすかな光の中に、子馬がいた。

 

15歳の誕生日の朝、一頭の子馬が生まれた。その日、全てが始まった。

何かの予感で目覚め、夜明けが近いことに気づくと飛び起きた。厩番から数日のうちに子馬が生まれると聞いていた。
”子馬は明け方生まれることが多い。ここ2、3日の間だろう”
急いで身支度をし部屋をでる。厩舎に向かう途中、庭を横切ろうとして足を止めた。頭上には彼女の部屋。窓はまだ閉まっている。気持ちは急いていたが待つことにした。オスカルも子馬の誕生を楽しみにしていた。きっともうすぐ窓が開く。

待っている--待っている。晩夏の朝の風が心地いい。走ったために早まっていた鼓動が落ち着いてきた。もたれた樫の木の陰から鳥の声。徐々に明るくなっていく誰もいない庭。奇妙にしんとして静かな朝だった。

声を出さず、音も立てず静かに立ち尽くす。何か来る予感がした。体の奥のほうから熱が上がってくる。鼓動が再び早くなる。
---くる、きっとくる。そう今すぐ。この瞬間、何かが

「アンドレ!」
弾かれたように上を見上げた。
「子馬は生まれたか」
声が出なかった。心臓を熱いものに掴まれて息すら出来ないでいる。
「まだなんだろう?一緒に行くから、そこで待っていてくれ。すぐ降りる」
彼女の姿がバルコニーから消えると、足の力が抜けて崩れ落ちた。

初めて会ったときも、こんな風に頭上から天使の声が聞こえた。光を浴びた金髪の子供。瞳の輝きはそのままなのに、どうしたのだろう。見知らぬ初めて会った少女のようだ。両手で顔を覆うと、掌が熱い。止めていた息を吐き出すと、何故だか泣きたくなった。

「アンドレ?どうしたんだ。行くぞ」
気がつくとオスカルが前に立って見下ろしている。
「今日生まれれば、お前の誕生日と一緒だ。子馬はお前にあげよう、大切に育ててくれ」
先に駆け出した彼女が振り返って微笑む。
「ありがとう。大事に・・するよ」
大事にしよう、子馬も、始まったばかりのこの気持ちも。そう心で誓って向かった厩では、生まれたばかりの子馬が立ち上がったところだった。

栗毛の駿馬は俺に与えられた。オスカルは自分の愛馬の次にその馬を可愛がっていた。老いて息を引き取った日は、一晩中側にいて、つやのなくなった毛並みを撫でていた。そしてずっと俺の手を握っていた。

 

あの夏の朝からどれほどの時間が経ったのか。長くもあり一瞬のようにも思える。ともにあった年月はもうすぐ終わろうとしている。だから・・・・もういいのかもしれない。ここで終わってもいい。このまま、二人でいた時間も胸を縛り続けた愛も、多分消えていくんだ。
いつの間にか掌の光は無くなっていた。もう何も無い、音も光もない場所。きっとこのまま存在さえ。

消えていく、無くなっていく。砂の山が波に崩れるように、最後に残った想いの欠片が失せようとしている。終わるんだ・・・・・もう・・

”終わらない”

 

・・・何?

”終わらせない”

 

何かが・・ある 遠くに

 

”・・・・ドレ”

 

声だ・・・・声が

 

「アンドレ!アンドレ!!しっかりしろ、眼を開けるんだ。聞こえるか!」
弾かれた。生まれた瞬間のように、様々な音が瞬時に耳を割るばかりに響き渡った。誰か叫んでいる。
「聞こえるか?私がわかるか。アンドレ、アンドレ!」

虚空から大音響の中へ弾き飛ばされ、暫く眼が開けられなかった。知覚が戻ってくると折れるような痛みが全身に響く。口を開くとうめき声しか出なかった。
「・・・アンドレ。良かった・・」
誰かが俺の手をそっと握っている。甲に暖かい水滴が落ちてくる。ぼんやりと瞼の裏が明るくなってきた。金の光彩が瞳に映る。

---お前が俺を呼ぶなら、まだ俺を必要としてくれるなら、留まっていよう。
眼をはっきりと開いた。白い頬と瑠璃の瞳と金の髪、そしてその後ろに。
どこまでも続く青い空が広がっていた。

---生きよう。生き続けられる。お前の為に

 

 

END