薄闇

深い沼の底から這い出てきたように、眠りから覚めた。しかし、目を開けても、身体は泥のように重く、血が通っていないかのようだった。

なぜだろう・・。
深い霧の中から意識が顔を出した。彼はようやく自分の身体のことを思い出した。打撲と切り傷と、骨にひびが入っているかもと言われたのだ。外には夕闇が迫っている、西向きの彼の部屋からは朱に染まった夕映えが見えた。

彼は起き上がろうとしたが、鋭い痛みを胸に覚えて諦めた。どのくらい眠っていたのだろうか・・。屋敷のどこかで人が動き回っている声や気配がするが、静かな夕方だった。いつもなら、屋敷にいるときなら彼も何かと忙しい時間。こんな風に夕日を眺めることなど珍しいのに。
遠慮がちなノックが響き、答えると彼の待っていた顔が扉の向こうに見える。

「起こしたか」
「いや、目が覚めたところだった。・・つ・・」
「ああ、起きなくていい。そのまま、横になっていてくれ」

いつもは陽に映えてけぶる金髪が、今日は夕日に紅く染まっている。そのせいだろうか、普段の彼女とはどこか違って見えた。寝台の傍らに腰掛けた彼女の白い顔に手を伸ばす。消えかけた泡に触れるように、そっとその頬をなぞった。

「目覚めた時、お前の姿が見えなくて・・不安だった」
「俺はどこにも行ったりしないよ」
「傷は、大丈夫なのか」
「言っただろう、たいしたことは無い。お前こそ」
「私は・・」
彼のはだけたシャツから、胸元の包帯がのぞいている。その白さを見て、彼女の脳裏に唐突に昔の記憶が蘇った。

「昔・・あれは幾つ位だったかな。私もそんな風に胸に包帯を巻いていた」
「そんなことがあったのか」
「お前は知らないだろう、誰も知らなかった。自分でまいたんだ。膨らんできた胸が・・恐ろしくて。でも止めた」
「何故」
「あんまりきつく締めすぎて、ぶっ倒れそうになったからさ」
「・・・・お前は手加減ってことを知らないからな。俺に剣の相手をさせていたときも。もうちょっと手心を加えてくれよ、っていつも思ってた」
「ふふ・・」

部屋に暗さが忍び込んできた。もう太陽はすっかり沈んでしまっていた。
「ああ、ここ包帯が緩んでる。さっき無理に動こうとしたから」
「無理してるわけじゃないさ」
「十分無理してる、じっとして。直してやるから」
「手加減してくれよ」
「それはどうかな」

彼女は意外と器用に包帯を巻きなおすと、そのまま彼の胸に置いた手を離そうとしなかった。白い指先がゆっくり彼の皮膚の上を滑っていく。

「・・・オスカル」
「黙って・・」
彼女の顔が下りてきて、金色の髪が彼の胸の上にあった。湿った音を立てて皮膚を吸う唇の感触が、彼の肌をあわ立たせる。
「オスカル、駄目だよ・・これ以上は」
「どうして」
「俺が止まらなくなる」
「いいだろう・・私がお前を欲しいんだ」
オスカルはふと、自分の台詞がどこかで聞いたような言葉だと思い当たって苦笑した。艶然と微笑みながら見下ろしている恋人を見て、アンドレは彼女を抱き寄せる。

押し当てられた胸の鼓動を聞きながら、オスカルは心臓の奥を、ざらり、と何かがなぞっていくのを感じた。彼女はその黒い蛇の名を知っていた・・だが、閉じた眼の中の闇に無理やり埋めてしまった。もう二度と顔を出さないように・・・。

闇があたりを包んでいる。夜が何もかもを闇の底へ沈めていった。

 

 

END