雪に鳴く

冬枯れの木々の枝に雪が積もり、あたりには音がなかった。夜の間吹き荒れた嵐は、日が昇るころにはおさまっていた。薄雲の上の太陽が雪の表面を照らす。高い木の枝から雪のおちる鈍い音と、遠くで鳥が鳴く声がしたが、すぐに静寂が戻ってきた。

目を閉じて耳を澄ます。暖炉の薪のはじける音以外何も聞こえない。それでも辛抱強く、外の音、館の中の音を聞き漏らすまいと意識を集中させる。そしてようやく、くぐもった音が――待ちかねた音――音というより気配に近いものを感じ取った。やがてはっきりと、静かだが力強い足音が聞こえてくる。ノックの音。いまさら許しなどいるはずも無いのに、答える声を暫く待ってからゆっくり扉が開かれる。

入ってきた男は、奥の部屋の寝台に横たわる青ざめた恋人を見下ろした。息は静かで眠っているように思えた恋人は、目を閉じたまま口を開いた。
「・・雪が、やんだのだな」
一晩中窓を鳴らしていた風はもう無い。白く曇ったガラス越しにも降る雪は見えなかった。
「明け方、ようやくやんだよ。道の雪をどかせている。このままでは医者を呼びに行くこともできないから」
彼女は窓のほうを見やった。窓枠に積もった雪に日光が反射して眩しい。
「医者は・・いい」
「オスカル?」
「自分の体のことは分っている。診断も受けた。全部知ったうえで・・私はここにいるんだ」
「知っていたなら何故」
何故言わなかった。何故教えてくれなかった。叫びたい声を押さえこむ。
―――この先、まとまった休暇など望めないかもしれない。雪が見たいんだ。
そう彼女に請われて雪深いこの別邸を訪れた。言葉の端に奇妙なものを感じながら、何も気づかなかった。
わかっていたらもっと暖かい土地へ、無理にでも連れて行った。お前の眼を塞ぎ、耳を塞ぎ、軍のことも荒れる国のことも、全て忘れられるまで閉じ込めておいた。
「昨夜は驚かせてしまったな・・すまない」
そう言って手を伸ばす彼女の夜着の袖に、黒ずんだ染みがついていた。喀血の量は多くなかった。少なくとも昨夜は。

彼は寝台の傍らの椅子に深く座り込んだ。持ってきた薬湯は冷めかかっている。
「医者は何と言っていた。お前の・・」
「・・・」
「答えて・・」
彼女は黙って長い間目を閉じていた。冬の弱い日差しの下で、白い頬は透けるようだ。長い睫が目元に影を落とす。彼はそっと血の気の無い頬に手をあてた。指先が息でしめると知らず涙が零れてきた。震える彼の手に自分の手を重ねて、目を開いた彼女が答えた。
「・・半年」
「馬鹿な!」
「何もせずただ神の加護を待っていればあるいは・・しかし、このままでは半年だと」
「・・そんなことが」
雪が見たいといった。雪も、芽吹く春も、うなじを汗が流れ落ちる夏も、あと一度きりだと?

そんなはずは無い。間違いだ。何かがおかしくなってしまったんだ。世界がこんなに静かで色も無くなってしまったのは、どこかが狂ったからなんだ。 一晩中荒れ狂った雪、シーツの上に転々と零れた赤黒い血。それ以外色彩が無くなって・・音もない、寒い・・・・寒くて。
「アンドレ」
冷たい・・。
「アンドレ・・抱きしめて」
彼女が握っている左手は暖かかった。心を凍らせる冬の中で彼女だけが熱を持っていた。
「お前に悲しみを移してすまない・・でもそばにいて欲しい。抱いていて欲しいんだ。お前がいなければ私は生きながら死んでしまう、お前がいてくれるなら強くなれる・・アンドレ」
右手で彼女の髪を撫ぜる。艶やかな金の髪。生命そのものの太陽の色。唇を合わせて吸った。頬に朱が戻ってきた。耳元から首筋に唇を下ろしていく。

腕の中の身体は暖かい。胸に顔を埋めると心臓が脈打っている。首筋にも、手首にも、彼は身体で脈打っているところすべてに痕をつけていった。今確かにここにある。消えて無くなったりしない。そんなことは、させない。
彼の唇と指が、白い膚に浮かび上がる青い静脈を追っていく。暖炉の木が弾ける音がした。名前を呼ぶお互いの声が高くなり、熱い息と滲む汗はとけあって、どちらのものとも判らなくなる。

お前は生き続ける。こんなに溶け合っていて離れることはできないのだから。逝かせなどしない。
「生きてくれ・・・」
耳元に囁いた。聞こえていたのかどうか、彼女はただ彼の名前を呼び続けるだけだった。

陽が傾くと再び雪が降り始める。窓を鳴らす風の音の向こうで、鳥の声がした。細く長く物悲しい。その声は雪に吸い込まれてしまいながら何度でも聞こえてくる。
「・・あれは?」
「きっと、番いを呼んでいるんだ。雪ではぐれてしまった相手を」
彼には声を限りに呼び続ける鳥の姿が、見えるような気がした。真っ白な世界の中答える声を待って飛び続ける。その羽の上に容赦なく雪が降りかかっていく。冷たい白い矢は、黒く濡れた羽の下へ突き刺さる。
それでも、鳥は呼ばわることをやめない。恋する相手の姿を見つけるまで。寄りそいあい、傍らで眠る日を夢見ながら。

もう一度眠りに落ちた恋人の髪を撫でながら、彼は耳元に唇を寄せて囁く。

オスカル、雪の下では夏に咲く花が眠っている。春が来れば芽吹くだろう。青い若葉が萌えるように伸び、陽光の元で花が咲く。やがて花弁が落ち、花は種となって再び地中で眠る。繰り返し、永劫に続くその営みを二人で見よう。花が地上で咲く限り・・お前と、ふたりで。

 

END