私は告発する



私は彼を愛しているけれど、彼はあの人を愛している。金色の髪の、神と見まがう美しい人。私のような下働きの侍女にも微笑んでくださる。私は部屋付きではないので、この広いお屋敷でお見かけするだけだ。それでなくても、今は軍務が忙しすぎ、館にゆっくりおられることは少ないという。
でも、あの日。彼とあの人が帰ってきたとき、皆が慌ただしかった。馬車から降りてきた彼の額に血が滲み、殆ど歩けなかった。その彼に肩を貸していたあの人も、軍服は所々破れ、顔は青ざめていた。私はあの人達から目が離せなかった。彼を見つめるあの人の・・・瞳が。

二人とも幸いに深手はない。でも暫くは休暇で屋敷におられる。お医者様に診てもらい、日々の手当てをするためにも、彼は自室ではなく小さな客間にいると。男性の使用人の棟には入れない、でも客間なら。部屋や寝具の手入れ、私に与えられた仕事のうちで彼の傍に行けるかもしれない。

背の高い黒髪の人。ここに来たばかりの頃、慣れない広い館に迷ってしまった。大御代の時代に建てられたという屋敷は、窓の数は数えられないほどだ。それを開け閉めするだけで一日が終わる。あまり使われていないらしい、北の暗い廊下で私が途方に暮れていると足音がした。私の小さな泣き声が聞こえたと。どこから聞こえてくるのかと思ったよ、そう微笑んだ左目が長い前髪に隠れていた。
務めて日の浅い口下手な私は、どうして彼の左目が隠れているのか誰にも聞けなかった。私はいつも彼を探していて、時折厩舎に向かう彼を窓の中から見つけることがあった。風に髪が乱され、白い弓のような痕が覗いた。私は一瞬息が詰まった。どうしてあの優しい人に、むごい傷痕がついているんだろう。どうして?

私は替えの寝具を持って、ドアをノックした。返事はなかったが、扉を押すと僅かに開いた。彼の寝台があるのは奧の部屋のはずだけれど、音がしない。眠っているのかも。少しだけ部屋を覗いてみた。壁に鏡がかかっていて、そこに人影が映っていた。 部屋の薄暗がりでもわかる、光る金色の髪。眠っている彼の頬に手を伸ばし、優しくさすっている。横顔が濡れて露が手の上に落ちている。そして彼の名前を、

――アンドレ
優しく悲しく囁くように細い低い声。
――――アンドレ・・・アンドレ

何度も呼ぶその声を 私は知っている それは彼があの人を呼ぶ時と同じ声。私はそんな風に彼の名を呼んだことがない、呼ばれたこともない。

どうして、この人はあんな風に彼を呼ぶことを許されてるの?貴族だから?お館のお嬢様だから?彼の主人だから?左目が潰れたのは、けがをしたのは、きっとこの人のせいでしょう。この人がいるから彼が傷ついているんだ。窓の中から見ていた彼はいつもいつも、この人を見ていた。この人の馬を手入れし、この人の半歩後ろを歩き、そのただひとつの眼で見つめているのは、私じゃなくこの人だ。この人は決して振り返ったりしないのに。

誰もこの人を告発しない。彼を縛り彼を傷つけ苦しませ彼の愛をただ受けて・・・・愛だけを受けている人、彼の愛を知っていて受け入れられない人。どうして、そんなことが許されているんだろう、

何故、誰も、神も、この人を罰しないの!

私は部屋の中に飛び込もうとした。この人の腕を掴んで揺さぶって、あなたがどれほど非道なのか、告発しようとした。神が許したって、私は絶対に許さない。扉を思い切り開けようとしたその時、私は見た。

彼の手が伸ばされる、あの人の頬を拭って。でも後から後から、露が彼の袖を濡らしていく。すまない、と繰り返すあの人に彼が微笑んだ。大丈夫だ、だからお前は泣かなくていい。お前が生きて、前を向いている。それだけでいいのだから。

 

私は扉を閉めるのを忘れてしまった。走って館の外へ出て、大きな樫の木の下で蹲った。小さな鳥の声がして、見上げると木洩れ日が眩しかった。

ああ、あの人は赦されてる。神が世界中があの人を非難したとしても、彼だけは赦している。きっとどんなことがあっても・・たとえ命を落としたとしても。

 

私は暇を貰おうとした。もう郷里に帰ろう、パリは危ない。きっともっと危険になる。だから離れよう、こんなところはもう嫌だ、逃げたい。屋敷にはほとんど戻ってこないあの人達を見ることはなかったけれどでも・・もう。そう考えている間にその日が来た。
私はその朝、あの二人が乗った馬車が、遠ざかっていくのを聞いていた。窓の中から見ることだけは、しなかった。その後、大きな美しいお屋敷が、太陽と月が消えたように暗く静まり返っていたことしか覚えていない。

それから、田舎に帰った私は紹介された夫と結婚した。黒髪ではなく茶色い髪だ。黒髪の人とはもう二度と話さない。たとえ左目がない人がいても絶対にそちらに目を向けない。夫はナポレオンの軍団に入りたいと言った。素晴らしいフランスの一員として、イタリアをロシアを見たいと。でも私は泣いて止めた。泣いて喚いて私の方が死んでやると言いながら引き留めた。夫は寂しそうに承知してくれた。もう二度と誰も私の前からいなくなってほしくない。

臨終の床で、私は告白する。痩せた神父の前で、私があの人を、あの人達を愛していたことを、逃げた弱かった自分自身を、私は告発する。眩いものを憎むことで、自分を保とうとした。見ているだけの、報われない愛に耐えきれず逃げ出した、弱い私。

 

神を許せなかった私でも、神は・・許してくださるだろうか。あの人達は・・・・私を・・許・・・・て・・・・・・