まなざす

 

青い眼がなければ、どうして青い空が真に見えようか?黒い眼がなければ、どうして夜が眺められようか。

G・バシュラール

 

 

日頃、彼は左眼を閉じている。傷を負ったとき瞼の皮膚が引き攣れ、開けているより閉じたほうが楽なのだと言う。それは潰れて白濁した眼球を見せないためでもあるのだろう。癖のある前髪を伸ばし、普段傷痕は隠れている。風が気まぐれに煽る以外、夏の暑さの下でも彼は前髪を上げない。周囲に、とりわけ私に、その惨い痕を見せないように。

彼を愛していると気づいた時、私は真っ先に彼の左眼の上の三日月を思った。愛する喜びより、私が長い間彼に与えていた傷と苦しみを思った。彼以外の男性を愛し、彼の想いを知りながら応えず、彼の左眼を奪った・・。
彼が私に向けるまなざし、私は何度それを見た?振り返るといつも微笑んで、優しく私の名を呼ぶ、あのまなざしを。

 

肩に風があたるので、窓を閉め切っていなかったと気づいた。晩夏とは言え寝る前の部屋は暑く、天窓を少し開けていた。そのまま、寝入ってしまったのか。ゆっくり眼を開けてみる。寝台の右手、傾いた窓枠が見える。見えている、ほっと息をつく。いや、違う。薄暗いが月光で僅か明るい窓枠は確かに閉まっていた。ではなぜ。

微かな風は左に感じる、窓ではなく扉のある側。見えない左側に顔を向ける。そこに彼女が立っていた、後ろ手に閉めようとした扉から風が入ってきていた。
「・・オスカル?どうした」
驚いて体を起こすと、彼女は黙ったまま手を出して俺を制した。寝台の傍らに立ったまま、俺を見下ろしている。
「・・・お前に」
絞り出すように呟いて、また黙ってしまう。中空に浮かんだ月が雲間から顔を出し、天窓から彼女の上に月光が降り注ぐ。白い光の中、彼女の瞳だけが青い。

「もうすぐ、零時を回る。お前の誕生日だ、だから・・」
彼女が屈みこむ、細い髪が冠のように光を反射して揺れる、指先を俺の頬に沿わせて・・・左眼の上に柔らかく暖かいものが触れた。
「誕生日、おめでとう」
窓際の卓の上に小さな時計。それが十二回、鈴を鳴らした。これも彼女からの贈り物だった。天窓の下の壁にかかった聖母子像、青いインク壜、彼女の描いた鳥の絵、ワインの名前だけが書かれた本、髪を結ぶ紗の布、挿絵のついた詩篇。
「・・・ありがとう」
時計の針が動く音だけがする。互いに黙ったまま、頬に置かれた彼女の手を取り、包む。
「お前が今、此処にいること。それが一番の贈り物だ・・なによりも」
包んだ手は振り払われなかった。細い指先に少しだけ、触れるだけのキスをする。伏し目がちに揺れる瞳は俺を見つめたままで、言葉はなかった。だから俺もそれ以上は言葉にしない。目覚めた時、彼女がいること。色彩のない中で不思議に青い、瞳で見つめられること。こんな幸福があるだろうか。

 

私を見つめる彼の右眼、今は開いている白く濁った左眼。私はその眼が愛おしい。その中に入ってしまいたい。彼の眼の裏から私を見たい。彼の眼が見る私は、恋をしていると判るだろうか。限りなく愛しい愛おしい私の男、お前の眼に口づけする。

 

「お前が生まれた日が、私の喜びだ」
その言葉を残して彼女が部屋から出ていくと、月光は傾いて部屋の半分が暗くなっていた。そしてふと時計の陰に何かあることに気づいた。手に取ると重い、腕輪。傾く光で見ると、黒い石がはめ込んである。そして、台座の金に刻印された短い言葉。

幼い頃海辺でふたりで拾い集め、彼女が今まで手元に置いていた、黒い瞳と同じ色の石。その黒曜石は掌でひんやりと冷たい。月が隠れてしまった部屋では、もう刻印も見えない。しかしその言葉は胸に刻まれ、忘れようも無かった。石を胸に抱えたまま、目を閉じた。

 

もう一度眠ればきっと・・・幸福な夢を見る。お前と二人で、幸福になる夢を。