コルセットの白い紐は蜘蛛の糸に似ている。精緻な紋様に編み上げられ、獲物を縛り付ける。息を吸って止め、心臓を内臓を圧迫されている間、獲物は死に近づいている。縛っているのは、誰だ?

 

「―――はっ」
彼女は止めていた息をはきだした。青白い背中が、コルセットの周囲だけ仄かに紅色になる。苦し気な彼女をいったん長椅子に座らせる。結い上げた髪を崩さないよう、横にはさせないが。常とは違うコルセットの拘束に、それでも慣れようと彼女はゆっくり呼吸を続けている。卓に置いてあったワインを口元に運ぶと、ひとくち嚙みしめるように飲んだ。
「・・続ける?」
呼吸が落ち着いてきた彼女が頷いた。彼は彼女の腕を取って立たせる。白いドレスはストマッカーの縫い留めもパニエも要らない。布の洪水のようなドレスをかぶせ、背中を留める。後ろのドレープを広げる。まるで何年も着付けをしてきたかのように、彼の動作はよどみない。大きな手が上半身の余計な襞を伸ばし、腰から下はなだらかに整える。

 

―――― 一度だけ・・・一度だけでいい。
ブランデーの酔いに紛れ、彼女が呟いた言葉。そのひと言で彼には判った。数日後の舞踏会にはかの貴公子も来るはずだった。
――お前だと判らなければいいんじゃないか。姿を変えて・・それで気づけば。
――――気づけば?
彼女は探るように彼の瞳を見ている。
――何故、女の姿でお前が現れるのか。その意味は、判るだろう。
“それは同時に俺の死も意味するな”彼はその言葉は声に出さなかった。
――誰にも知られないようにできる、俺ならば。

 

そうして、彼らは此処にいる。秘密裡に用意した部屋。口止めして仕立てたドレス。全て整えてから、彼は細く嫋やかな首に紅い宝玉を留めた。
「上を向いて」
彼女は頬を捕らえた彼のなすがままに顔を上げた。閉じられた瞼の上にひんやりとした感触が二度三度あり、軽く開いた唇に湿ったものが塗られているのが判った。その全て、今の己の姿も施された化粧も彼女には見えない。
――秘かに、しかし素早く周到に全て調えよう。だがひとつだけ約束してほしい。俺が良いと言うまで・・・。
彼が良いと言うまで決して目は開けないと約束した。
「これで最後だよ、さあ」
促されて長椅子に座ると、右足に手が触れるのがわかった。
「あ・・何?」
常にないコルセットの苦しさ、見えぬまま姿形を変えられていくこと。それに戸惑いはあったが、足に触れられた瞬間、伝わる掌の熱に彼女は怯えた。
「・・靴だ」

 

絹靴下の薄い生地の下に、踝の膨らみと高く盛り上がった甲、桜色の爪があった。彼はその足首の靴下の緩みを、撫でて伸ばす。
「・・ふっ」
皮膚の表面を走る感覚に耐えられず、彼女は指を噛んで息を漏らした。彼はそれに気づかぬように、膝の裏まで皺をすっかり直してしまう。それから椅子の上に置かれた、絹の靴を手に取った。

絹地の色は深い瑠璃色。古代神殿を模した装飾の高いヒール。バックルは金糸の縫い取り。踵には金と深縹色のリボンが結ばれている。

眼を腕で覆い、唇を硬く噛んでいる彼女の右の爪先を手に取る。ほっそりした足に、先の細い靴先を嵌め込む。靴底のアーチは足裏のなだらかな曲線に沿っているが、踵は少しきつい。水の上のように歩き、羽のように舞うとき、脚の動きを遮らないようになっている。腕に抱かれて踊るための靴なのだ。彼は目の高さまで足を上げ、絹地の滑りを借りて踵を押し込んだ。
「・・・・あ・っ」
こらえきれず声が漏れた。必死に長椅子を掴んでいる左手が震えている。彼は何も言わず眉を上げて、もう片方の靴を手に取る。手が離れたことに瞬間安堵したのか、彼女が深く息をついた。だがそれも束の間、彼の大きく熱い掌が彼女の左足を包んだ。再び緊張が走る。
彼はそのまま暫し静止した。眼前にある絹に包まれた爪先の、親指の曲線を凝視する。その爪を指の腹ですっと、撫でた。びくりと震えた足が、彼の拘束から逃れようと揺れる。しかし振り払えない。片手で爪先を包んでいるだけの力が、これほどに強い。彼は何事も無かったかのように、するりと靴を押し込んだ。

もう離れるはず、そう思っていたのに、彼の手は置かれたままだ。小さな絹づれの音がして、足首に何か巻かれていく。コルセットの拘束より緩やかなその感覚が、何故が全身を縛るように感じてしまう。窮屈な絹の型に押し込められた爪先から、リボンが巻かれている足首から、身体中へ。熱せられた血が巡り、息が熱くなる。彼の結んだリボンは蝶の形に似て、羽ばたく羽の鱗粉のように、ゆらゆらと揺れた。彼はそのリボンの先に、ふっと息をはきかけた。生暖かい風に全身に痺れが走る。
「・・何をっ」
「駄目だ、オスカル!眼を開けないで!!」
二人の鋭い声が交差する。その強さは僅かに彼のほうが勝っていた。
「もう・・・終わったよ」
彼は立ち上がり、彼女の腕をとって数歩歩かせる。
「目を開けて」

もう夕暮れ近い。窓の外は暮れかかり、西の稜線に緋色の雲がたなびく。部屋は暗さを増し、うすぼんやりとした明るさしかない。その中で、浮かび上がる白いドレスの女。鏡に一歩近づこうとして、彼女の足がふらついた。
「あっ・・」
倒れかかる細腰を彼の腕が支えた。体に密着するドレスの生地から、彼の体温が伝わった。彼女は呆然と、男に――彼に抱きかかえられている女の姿を見ていた。

 

馬に鞭が振るわれ、馬車が遠ざかる。彼はひとり、それを見送っていた。今宵、あの貴公子は謎めいた美しい女性を眼にとめるだろう。近づいて申し込み、人々の羨望の眼差しを浴びながら踊る。女は何も言わないが、どこかその女に似ている友人のことを話す。伏せた金色の睫が揺れているのを見咎め、その横顔を見つめる。施された化粧、結い上げられた髪を取り除いてしまえば、それは。

許されない愛に疲れてしまった男ならば。美しい女からの溢れるほどの愛に手を伸ばす。ふたりを阻むものは何もないのだ。輝かしい恋人たちの誕生。そしてそれは、彼に死を宣告する。横たわる無残な骸が、金色のリボンを手にしている。踊るための靴に彼が添えたリボン。それを見て、ようやく彼女は気づく――――全ては、彼のたくらみだったと!

死を宣告させるためのたくらみ。火薬を詰め、火をつけ、最後の引き金をひくための。彼女は恋人の腕の中で泣くだろう、嘆くだろう。しかし死んでしまった者は過去になる。何年、何十年、恋人と共に生きる彼女の人生にはいない。彼女の死の後は、彼の存在も消えてしまう。

 

――それが俺の望み。報われないなら、せめて終わらせてほしい。お前の手で終わらせてくれ。
夜会から戻ってきたお前は頬を紅潮させ、目を輝かせているのだろう。浮き立つ心は脱ぎ捨てた靴のことも忘れる。その足首を飾っていたリボンを手に取り、俺は部屋を出る。そして・・・二度と帰らない。

夜半、馬車が到着した。彼は近づいて扉を開け、降りてくる彼女の手を取る。俯いた彼女の横顔を、彼は不思議なほど平静に見ていた。降り立った彼女が顔をあげる。涙の跡がある。彼は驚愕する。

 

―――― 一度だけでいいと言っただろう。あの男の愛を歪ませることなど、私は望んでいない。あの方を嘆かせたくもない。一度だけで・・よかったんだ。
髪をおろし、化粧を拭う。いつものブラウスとジレになる。そこにはもう、恋するドレスの女はいない。
――お前は・・それで、良かったのか。
――――わからない。でもこの想いを捨てるのではなく、逃げるのでもなく。ただ私は・・私が前に進むために。
――そう・・か。

彼は長椅子に座りこみ、おかれた靴を手に取った。死出の餞になるはずだった金のリボン。彼はそれを見つめていた。彼女が目を向けている窓の外は、空が白んできた。夜が終わる。

「・・・アンドレ」
白い曙光を背景に、彼女が振り返る。
「お前も、進んでいいんだ。お前の望む先へ・・」
――――お前が何故この夜をたくらんだのか、私は知らない。ただ靴を持つ掌から伝わった熱が、言葉にせず目にすることもできない、何かを伝えていた。だから・・。

彼は手の中のリボンに目を落とし、顔を上げてそれを自身の髪に結んだ。金色の絹が黒髪の上で揺れる。
「お前はいつも、俺にとって眩い光だ。ずっと傍らでその光を浴びていたい。望みは、それだけだ」
彼女は黙している。
「本当に・・それだけなんだ」
――見つめ続けたい。骸の虚ろな眼ではなく、生きた俺の瞳に映る、眩い青い光を。恋を捨てず想いから逃げず、傷つき膝を屈しながら前を向く、願わくば、俺もそうありたい。お前の傍にいられるなら、できるのかもしれない。

彼女は振り返り、手を伸ばして軋む窓を開けた。清浄な光が部屋を照らし、白いドレスを、コルセットを、そして青い靴を浮かび上がらせる。闇は消える。

 

夜が、終わったのだ。

 

 

END