アゲハ蝶

深夜、眼が覚める。深く短い眠りのはずが、常より浅く目覚めてしまった。蝋燭も消えた部屋は真の闇で、物音もない。

_____静かで、誰もいない、ひとりの部屋。
違和感があった。どうしてこんなに、部屋が寒く広いのだろう。半身起き上がった肩から熱が逃げる。心細いほどに暗い、こんな夜ではなかったはずなのに。すぐ傍に、暖かく安らいだ恋人が眠って。
_________誰が?
ここに誰がいたはずなのだろう。もう何年も、ただひとり広い寝台で眠りについていた。遥かに幼い頃は、誰かの・・小さな寝台で星を見ながら共に寝入ったこともあったけれど。今ここにはひとりだ。

起き上がる、背中が寒い。寒い・・熱が冷めないように。抱きしめてほしい、苦しい、寂しい、心細い。どうしてここにいないんだ。いや、誰がいないのだろう。ずっとひとりだった、私・・私はひとりで。父が定めた道から離れ、立ち向かおうと決めた。求婚者も拒絶した。その時も、いままでも、誰かに背中を見ていてほしいと、ふと願ったのは何故だろう。
______私は何を失った?何を・・忘れているんだ。何を・・・望んで__

 

「私の望みは、この国を見届けること。お前と共に。だから・・だから、そばにいてほしい」
外は風が出てきた。窓が揺れ、樫の枝が窓ガラスを叩く音がする。彼は私を腕に包み、ふたりでその音を聞いていた。
「死ぬまで。いや、命が尽きてもそばにいるよ」
「そんなことを、言わないで」
夏の夜なのに、背中が一瞬冷たくなった。ざらりとした冷気が肩に走る。
「悪かった。さあ、もうおやすみ。明日はきっと長い一日になる」
「いやもう・・今日だ」
時計は十二時を回っている。この腕の中で安らいでいられるのはあと数刻。夜が明ければ私たちは戦場に立つことになる。
「ならば今だけでも、憂うことなく眠ってほしいんだ。お前の寝顔を、見ていたい」
囁く彼の声。髪を撫でる彼の手のひらの暖かさ。私の瞼は次第に重くなる。彼の望みならば、今だけ、夢すら届かない深い眠りを。

 

_______どこにいるんだ、私はひとりだ。ここへきて、抱きしめて。ひとりで立つには、あまりに・・あまりに。
私の前にも後ろにも、誰もいない。わかっている。わかっていて私は足掻く。父に背き、愛を拒絶し、ひとり戦いに立ち向かおうとする私の、彷徨う心が何かを探している。明日、私は戦場に立つと言うのに、何故、誰を探しているんだろう。
________誰か、誰もいないのか。私がこれほど呼んでいるのに、私が生きてきたことを、私の愛と苦しみを____知る人は!!

 

「・・・オスカル」
呼ばれて目覚める。彼の指が私の頬を撫ぜる、濡れている。
「泣いて・・いた?」
「悲しい夢でも」
「・・いや、そうじゃない。目覚めた時、お前がいることがこれほどの幸福なのだと。それが夢でわかった」
はっきりと覚えていない。ただ寒く暗かったこと、目覚めて暖かな腕があること。それだけが確かだ。彼の胸に顔を埋めながら、背中に腕を回す。私も彼を暖めたい、熱を伝えたい。朝になっても戦いの中でも、互いの熱を忘れないように。

風の止んだ窓の外が次第に明るくなっていく。新しい一日が、新しい私たちが始まるその証を、ふたりで見つめていた。ふと窓に動く影を見つける。儚いほど微かに揺れる、小さな影。幻のような、青い蝶。

 

_____________そうか、あれは________蝶の夢

蝶の夢を見た私、蝶が夢に見た、私_____夢と現のあわいを蝶が飛ぶ

 

音もなく羽ばたいた蝶は彼方へ飛んでゆく。夏空が青く染まっていく。長い一日が、始まる。