信頼

歩幅がずいぶん小さくなっていることに気づく。いやそれより、天井がとても高い。秋の午後で、廊下に差し込む陽の光は柔らかいけれど、影が落ちている廊下が長い。

 

そうだ、これは子どもの目が見ている光景だ。

まだ館に来て日も浅い頃。故郷の村で大きな建物といえば教会くらいで。それですら、この館のホールより小さかった。館の中で迷子にならないでいることが難しい。今いるのは、東翼?西翼?午後の日が差しているから、西だ。

急に心細くなる。ここで暮らしていけるんだろうか。廊下の角の花瓶ひとつでももし割ってしまったら、一生分の給金でも足らないと、厩番が笑いながら教えてくれた。走り回っていた故郷が恋しくなる。陽の暮れるまで川で魚を追いかけることも、もうない。母さんがいなくなって、自由な子ども時代が終わった。働くことは苦じゃない。おばあちゃんも怖そうに思えたけど、心配してくれているのはわかる。親を亡くして遠くから引き取られた子どもに皆が優しい。だからここで生きていかなければ。

でも・・ひとつ、ひとつだけ。不安が拭えないことがある。

ひとつ年下の、この館のお嬢様だ。初めて見かけた時、どうして教会の天使がここにいるんだろうと思った。金色で、光っていて。聖歌が聞こえてこないのが不思議だった。その天使はお嬢様なのに男の子の服を着て、そしてとても強い。“君は僕の剣の相手だから”そう言われたけれど。

立ち止まって考え込む。軍人のお父上の後を継ぐ、そのために男の子として学んでいるのだと。そう祖母から教えられた。殊更にお嬢様と言ってはいけないとも。なぜ。
俯いて考え込んでいる間、どれくらい経ったのか。影が長くなっていることに気づいて慌てる。厩の用が終わったら剣の稽古だと言われていた。数日前も打ちあって剣を落としてしまった。その時痺れた手はまだ少し痛む。あの子は、毎日あんなに重いものを持って稽古している。教師が来ない時はひとりで。細く白い腕を懸命に振っている。

なぜ、そこまでするんだろう。なぜ、お嬢様と言ってはいけないんだろう。なぜ、あの小さい体でそんな重いものを背負っているんだろう、どうして。

走って中庭に行くと、もう待っていた。風に揺れる金髪が、傾く陽に赤く染まっている。大きな青い眼、薔薇の実のような唇。とても、とても綺麗だった。教会のステンドガラスで剣を捧げ持っていた大天使のように。

「オスカル・・様、あの」
「オスカルでいい」
「あの・・どうして、こんなに稽古をするの」
君は女の子なんだろう。そうは聞けなかった。
「強くなるため」
「強く?」
「大きくなったら、王家を守る。守るためには力がいるんだ。無力では誰も、何も守れない。力をつけなくては」
「それを、信じているの」
風が吹いた。短い光る金髪が舞い上がって、王冠のように煌めく。
「信じているよ」

言葉が胸に刺さることって、本当にあるんだな。そう思った、夕暮れが迫る秋の一日。

 

目が覚める。よみがえった幼い日の記憶に、しばらく起き上がれなかった。あの日々。不安や戸惑いも、鮮烈な金色の光に彩られいつしか消えていった。

「私は……信じるしかない。己が選んだ道を」
昨日、彼女が自分に言い聞かせるように呟いた言葉。父将軍の意に反して彼女が選んだ、そのことを。
「踏み出すのは怖い。しかしこのまま留まっていることもできない。私は見たいんだ、今何が起こっているのか」
厩舎で愛馬の首を撫でながら話す。彼女が信頼する数少ない相手。
「目を閉じ耳を塞いで知らずにいるほうが、よほど恐ろしい。だから、踏み出すほかないんだ」
夕暮れの光が差し込んでいる。かすかに揺れる細い光が彼女を照らす。
「お前は・・私と共に来るか?」

それは信頼の言葉だった。あのような行為に及んだ相手を、なお信じようとする彼女の強さ。
「俺は・・・」

俺の返答を聞いた彼女が微笑む。秋の西空が真緋に染まり、その横顔を照らしている。彼女が信じるならば、俺も自身を信じよう。この道の先に何が待っていようとも。

 

______信じているよ