蝶の見た夢 前編

――アラン・・・アラン
呼ぶ声がする。これは夢だろうか、眠っている時も目覚めている時もいつも、聞こえている。これは・・誰の声だ。振り向けば、あのひとが、あいつらが、皆・・・。

 

「アラン、起きたまえ」
「あ・・すみません。眠っていました」
「うなされていたぞ。だから起こしたのだ」
「俺が?」
「そうだ」
うなされていた?夢でも見たんだろうか。何か、声が聞こえていた気がする。
「眠るなら深く眠るべきだ。寝ぼやけた頭でいては敵の的になる」
「あなたのように、短く深く眠れる兵士はいないでしょう。だからこそ」
「そう、私のような男は二人といない。だから今の地位がある。そうだろう」
得意げに笑う。それすら兵士向けの演技だと知ってはいても、この小柄な男は人を惹きつける力があった。敵地の目の前で戦闘を待っている時間にすら、笑みを浮かべられる男。
「・・・夢で、誰かに呼ばれた気がしました。あれはきっと・・過去からの声だ」
この男を前にすると、つい心情を吐露してしまう。相対する人間に胸筋を開かせる不思議な力があった。
「ふむ。では君は、夜明けになれば敵の砲弾を浴びると知りながら、過去に足を取られているのかね」
「そう・・かもしれません」
夜明け前の暗がりの中の静けさ。これは覚えがあった。何年も前、あの夏の日。不思議なほど静かで、鳥すら鳴かなかった。ただ空気が、触れると砕けそうなほど張り詰めていた。
「では、その過去の亡霊も連れて行きたまえ。亡者を背負って走れば、君は敵弾より早く走れる。背負うもののない戦いなど無意味だ」
「普通は、過去など捨てていけと言うものですよ」
「私の辞書に、凡庸な言葉はないのでな」
「まったく、あなたときたら」
「さあ、空が白んできた。アラン、行くぞ」
夏の日差しが差し込んでくる。今日も戦闘が始まる。新しい戦場のはずが、いつの間にかあの夏の日と重なっていく…….

パリに戻る。野戦の日々は夢のように思えるが、確かに地続きだった。戦況報告、会議、兵の増員、兵站の手配。でもしばらくは、戦闘はないとわかる。
「休暇はアラスに行くそうだな。一週間で良かったのか」
「ええ。昔の戦友の・・弟が暮らしています。手紙をもらったので」
「もっとゆっくりしてこい、と言いたいところだが。私としても君がいないのは困る。一週間だ」
「ありがとうございます」
矢継ぎ早の、止むことのない戦い。そして勝利に次ぐ勝利。それがナポレオンを今の地位に押し上げた。故に彼は止まることができない。革命の混乱に疲れ果てた民衆を、勝利という輝きで眩ませている限り、彼は昇っていく。
でもいつか、止まる時が来るのか。それは・・その時は。

 

「アラン!アラン班長!!」
日に焼けた若者が、手を振って呼んでいる。昔は、痩せた心細げな少年だった。いつの間にか立派な青年になり、妻もいる。
「ごめん、違うよね。つい昔の呼び名で」
「班長でいい。あいつもずっとそう呼んでたんだから」
「でも立派になったよ、アラン・・班長。兄貴に見せてやりたかった」
「見てるかも・・な」
シモンが、あのフランソワの弟が、不思議そうに俺を振り返る。そばかすと明るい色の髪が兄に似ていた。でもフランソワだけじゃない、ジャンもルイも、あいつも・・・あの人も、みんないる、俺を見ている。黙って・・じっと。
「紹介するよ、妻のポリーヌだ。妹ももうじき来る。楽しみにしてたんだ」
シモンの傍の女性は、大きなお腹を庇うようにお辞儀をした。手紙ではもう来月産まれると聞いている。
「この子の名前をつけてくださるのでしょう。とても光栄です」
微笑みが春のように明るい、黒髪の幸福な女性。かつて幸福だった女性にも・・似ていた。
「シモンのたっての頼みですから。俺は、こんなことしかできませんが」
「男の子なら、強い軍人になるかも」
「・・さあ、ささやかだけど食事を用意したよ。俺が畑で作った野菜ばかりだ」
「それは楽しみだな」
やがてシモンの妹も、夫と小さな子供たちを連れてやってきた。その晩は賑やかで、穏やかだった。

「名前、考えてくれたかい」
夕食後、とっておきだと言うワインを前に、二人だけで向き合っていた。日に焼けて肩も広くなり、もう兄の歳を追い越してしまっている。
「いろいろ考えてある。お前たちの顔を見て決めたかったんだ」
「あの・・さ。きっと班長が考えてくれた名前がいいと思うんだ。だけど、もし女の子だったら・・ディアンヌは・・」
俺は心底驚いた顔をしてたんだろう。シモンの顔色が変わった。
「ごめん。でも思い出したんだよ、兄貴は班長の妹が、ディアンヌさんが好きだったんだ。可愛くて優しくて、天使みたいだったって」
「そう・・それ・・・は」
――――兄さん
だめだ、呼ぶな。
――兄さんってば、ねえ。
やめてくれ、俺の前に立たないでくれ。お前はもういないんだ。俺は・・俺が助けられなかった、だから。

「班長・・ごめんよ。せっかく来てくれたのに、そんな顔させるつもりじゃ」
「いや、いいんだ。お前の子なんだから、最後はお前が決めりゃいい。そうか、フランソワがな。あいつ、そんなこと俺には言わなかったのに」
思わず苦笑が漏れる。
「うん。班長には怖くて言えない、手を出すなってぶん殴られるって笑ってたよ」
「笑ってたのか・・そうか」
眼に浮かぶ。休暇で帰った家で、兄弟が笑いながら話している。軍隊であったこと、班長が怖かったこと、新しい隊長のこと・・幸せな家族の光景。
「班長。俺もうひとつ、謝りたかったんだ。あの時、ひどいことを言ったから」

シモンの真剣な表情が、あの時に繋がる。暑い夏の一日が終わった後、知らせを受けた人々が遺体の並ぶ教会に集まってきた。棺の無い者すらいたが、皆一様に取り縋って泣いている。その声が響きあい、俺の背中に染み込む。
『・・・どうして?』
その中の痩せこけた少年が、俺の前にやってきた。見覚えがあった、フランソワの弟だと。
『なんで・・兄ちゃんが死んだの。どうして・・』
後ろには小さな少女を連れている。妹もいるとは聞いていた。まだ、泣いてはいない。だが握った拳は震え、歯を食いしばった顔は赤くなっていく。
『大丈夫だ、って。俺の隊は班長も隊長もすごく強い。だから死んだりしない、ちゃんと帰ってくるって・・言ってたのに』
俯いていた顔があがった、俺を正面から睨みつける瞳に、涙が溢れそうになっている。
『なんで、なんで兄ちゃんが死んだんだ。あんたは生きてるのに!なんでだよ!!』
後ろの少女は、少年のシャツの裾を固く握ったまま震えている。少年だけではなかった、教会の中、悲嘆にくれている人々が俺を見つめている。何も言わず・・ただ、黙って。生き残った俺を。
『なあ、兄ちゃん殺したのは誰。教えてよ、どこにいるの。俺が殺すから、絶対・・絶対に』
『だめだ!』
俺は思わず叫んでいた。小さな肩を掴んで揺さぶる。
『だめだ、お前は、お前だけは手を血で染めちゃいけない。妹がいるだろ、母親だっているよな。お前がそばにいないでどうするんだ』
『だって・・だってそれじゃ。俺、どうしたらいいの』

「あれから、班長がパリを出ろって。ここに移る手配も、全部やってくれただろ。知らない土地だったけど、母ちゃんには故郷だから知り合いもいたし・・ずっと、俺・・俺は」
あの時と同じように、顔を上げた目に涙があった。
「酷いことを言って、謝りたかった。そしてお礼を言いたかったんだ。苦しいこともあるけど、母ちゃんはもういないけど。毎日畑を耕して女房がそれを料理して、子どもも生まれる。おれは、ここで生きてきて良かったと思ってる。心から・・幸せだと」
今度こそ俯いた頬から涙が溢れた。
「ごめん・・そしてありがとう、班長。感謝してる」
俺はシモンの肩に手をやった。泣きながら笑っているその顔は、本当に兄に似ていた。

「生まれたら知らせるよ!元気で。またいつでも来てくれ」
手を振る二人の影が小さくなっていく。馬車の外は、どこまでも青い空だった。どこまでも青く、見上げると空に落ちていくような・・・。
俺は馬車の壁を叩き、御者を呼んだ。
「すまないが、行き先を変える」
鞭が振るわれ、馬車は再び走り出した。空が後ろに流れる。幸福な暖かい家庭も、後ろへ遠くなる。

 

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