オスカルとアンドレの間にあるもの

 

私は昔からオスカルとアンドレには恋愛以上というか、恋愛以外の何かがあると思ってたんですが、ちょっとわかった気がします。

それは信頼です。この人の生き方、言動、人生、そういったものを全面的に信頼している。二人とも基本的に利他の人なので、自分以外の誰かのために行動する。その根本の人間力を、お互いが信頼しているのではないかと。
二人の間にたとえ恋愛感情がなかったとしても、お互いが「この人は人間的に素晴らしく絶対的に信頼できる」そう信じられる関係だった。だからこそ何があっても二人は離れなかったし、対等な関係だったのだと思います。

旧アニで誤解されがちな”従う”という台詞ですが、彼らの間に上下や支配被支配はありません。私があなたを、あなたが私を尊重すると信頼しあっているが故に、あなたの示す道に「従う」それは共に道を歩むことなんです

恋愛は常に揺らぐものです。どちらがより愛しているか、気持ちは変わらないのか、愛は続くのか。常に揺れている。しかし彼らの間にはそれ以上のもの「信頼」があった。だから揺るぎない。

激動の時代を生きた彼ら、アラン達やマリーフェルゼンは、皆オスカルをアンドレを信頼していたでしょう。激しい時代だったからこそ、信頼は大切なものでした。信じる人、信じる人が示す道。そういったものがなければ生きられなかったのだから。

革命時代のフランスも70年代の学生たちも、信じるに足る人はいるか?信じられる道はあるか?それが生きるために必要なことでした。だからベルばらはそのような時代に生まれたのだと思います。

 

 

宝石箱と宝の地図(ヲタク論)

以下アメブロより転載です。直接アニばらを語ってはいませんが、比較論として転載しました。

***************************

 

独断と偏見による二項対立論、次はオタクですw

先にガンダムと劇場版ベルばらを比較しました。その時、ガンダムと劇ばらではファン層(ヲタク層)がかなり違うことに気づいた。ロボットアニメと五十年前の少女漫画なので、当たり前と言えば当たり前なんですけど。しかしあまりにも隔たっている(ように見える)

まず劇場版ベルサイユのばら(以下劇ばら)

メイン層は60代女性。原作ベルばら好きな人、ヅカばらが好きな人。少女漫画も宝塚も、女性にとっての美しいもの綺麗なものを主題にしています。勿論例外は有りますが基本はそれ。大切なものを美しいものを、自分の中の宝石箱にしまっておく。そういうイメージ。

対してガンダム。これはロボットアニメですから、基本チャンバラごっこ。男児がジャングルジムから飛び降りるようなもので、そういう男児はえてして宝の地図的なものが好きです。そんなんある訳ねーじゃん!と言いつつ探し回って泥だらけになる。そして親に怒られるw

言い換えれば、劇ばらは「宝石箱」ガンダムは「宝の地図」。宝石箱の中はキラキラと美しく、女性自身が集めた既知の物ばかり。対して宝の地図は、全く未知の存在すら不確かな謎の物。

劇ばらが好きな人は、多分宝石箱が好きな人なんです。意味不明な未知なものはない。よく知った、美しくキラキラしたものが詰まったきれいな箱。ガンダムは、ちょっとよくわからん宝の地図見つけたから、探しに行こうや的なw謎に溢れて未知の部分が大きく、故に探求せざるを得ない。そういう作品。

ただ私はどっちかと言うと、宝の地図派です。よく知った美しいものがキラキラ溢れてるより、あるかどうかわからない謎を求めて崖の下に行く、みたいな方が楽しい。泥だらけになりますがwなので新機軸な新解釈で勝負したガンダムの方が好きっていうだけです。

宝石箱も宝の地図も、自分の趣味嗜好にそってその都度選べばいい。ここでは便宜的に女性と男児というジェンダーで分けましたが、そもこんな二項でエンタメがくくれるはずもありません。どちらも兼ね備えた作品も、全く別の軸の作品もたくさんあります。そういう作品に対する感想解釈もまた記事にするかも。
以上、劇ばら&ガンダムに対する単純な仮説でした。

ガンダムGQuuuuuuXと劇場版ベルサイユのばら

二月初旬「ガンダムGQuuuuuuX」と「劇場版ベルサイユのばら」を、はしごして観てみました。ガンダムは身内が観ろ観ろうるさかったので根負けw面倒だから朝ガンダムで昼ベルばら。
続けて観たのは偶然ですが、偶然とはいえ似通った部分と徹底的に異なるところがありました。
(各一回のみの鑑賞のため記憶違い等あるかもしれません。また以下全て私個人の雑感です。辛口なのでその点お含みおきください)

 

似通った部分は、
①ペルソナが明確である
②前後半構成になっている
③ファーストを踏襲している

①ペルソナ(ターゲット層)
劇場版ベルサイユのばら(以下ベルばら)で、初見一発思ったのは「ペルソナが明確だな」ということ。層の厚い宝塚ファンと原作onlyファンが明確にターゲットでした。
そしてガンダムGQuuuuuuX(以下ガンダム)
これは主に20〜30代のヲタク男性。ロボアニメ二大巨頭のタッグなので注目度満点。

②前後半構成
ベルばらは前半アントワネット、後半オスカルと完全に二分割。
ガンダムはファースト踏襲改変の前半、その後の後半という構成。

③ファースト踏襲
ここが一番似ていて徹底的に異なる点です。
ベルばらは完全に宝塚と原作ベース。ガンダムはファーストテレビシリーズを踏襲しながら大胆に改変しています。

以下は相違点を挙げます。

①ペルソナ
まずベルばら。
歌を多用した構成、アニソンというよりキャラソンな挿入歌。これは確実に最大ターゲットの宝塚ファン向けです。また原作少女漫画的ファンタジックなシーンを再現しており、これは原作者ファン向け。
実はこれが劇場版の一番の強みであり、最大の弱点だと思いましたターゲットをあまりに明確にした為狙った層には刺さったが、その他の層に広がらなかった。商業エンタメにおいて、刺さった層と同じだけ届かなかった層も重要です。

対してガンダム。
まずガンダムシリーズは、製作者も世界線も異なる形で何度も改変されています。今回もファーストから大胆に換骨奪胎して新しいファーストを作りました。
これがターゲットに刺さっただけでなく、テレビシリーズを控えてネタバレできないという縛りで「観ないと中身がわからない」という状態。これは語りたいヲタク層への大変有効な手段です。

②全後半構成
ベルばら原作は途中で主人公がほぼ交代しています。原作準拠しながら二時間という枠の中でまとめる為にアントワネットオスカルパートを明確に分けているので、二時間の映画を観た印象が薄いです。

ガンダムはファースト踏襲の前半を受け、数年後の話に繋げています。元々のファーストと後半の印象が違っていたことは否めませんが、前半を受けているので話としては繋がっています。

③原作踏襲
ここが一番異なる部分です。ガンダム、ベルばらの最大の相違点。それは原作・ファーストの踏襲と改変。

ベルばらは宝塚ファンと原作者ファン向けという方向性のため、歌に比重を置き原作のカラーを押し出しています。
今時は原作ままのアニメ化が主流ですから、ベルばらが原作回帰したのはわかります。ならば何故歌劇にしたのか。歌に尺を使わず原作そのままにまとめなかったのは、やはりペルソナを過度に重視しすぎた結果なのかと。

対してガンダム。
ネタバレできないんですがファースト知ってる人ほど、なんじゃこりゃあ!になりますw180度の改変なので賛否がでる挑戦です。がしかし、これが最大に効果的なんです。
ひっくり返ったファースト世界がその後どうなるか?という最大の謎を残したまま後半に突入し、しかも終わらない(TVシリーズに続く)謎が残ることにより、何度も見たくなる仕組み。これが反応を呼び、拡大していった要因です。

商業エンタメにおいてターゲット層は最重要です。しかし成功するには、タゲ層の外に広がらなければなりません。その仕掛けがガンダムは群を抜いて上手かった。

 

他相違点の補足

まずベルばらで私が一番違和感あったのが歌です。宝塚やミュージカルに慣れている人なら分かるのでしょうが、とにかく歌が多すぎ、歌詞全部が聞き取れず、故に分からない。ひたすら??でした。
ベルばらには宝塚という確立されたコンテンツがあります。ベルばらの名を社会的に広め恒久的人気の一翼を担っています。でもそれをアニメにする必要はあったのか?歌ならば素晴らしい研鑽を積んだジェンヌ達がいるのに。

対してガンダム。米津玄師の主題歌と挿入歌が二曲。身内が激推ししたのが、この主題歌の挿入タイミングです。確かに素晴らしく効果的でした。
物語が最後に向かって集約されていき、後半主人公が覚醒する場面で、イントロなしでいきなり歌が入ります。bpm 高めのリズム、緩急のあるメロディ、世界観を脱構築して組み直した歌詞。盛り上がらざるを得ない。歌の演出に関してはガンダムに軍配が上がります。あと歌が単純にかっこいい。アニソンとはこうあるべきな米津玄師。

劇場版は本当に背景美術が素晴らしかったし、アニオリの展開も工夫されていて良かったと思います。ただペルソナに縛られるあまり、逆にターゲットが狭まれてしまったのではないかという危惧は感じました。

偶々両方見てしまった私の雑感です。ガンダムはテレビシリーズが始まるらしいので楽しみ。

 

あと、超蛇足ですが。劇場版があれほど宝塚に寄っているなら、いっそ宝塚で再上演しては。歌も展開も宝塚の舞台でやり、そのバックに劇場版のシーンがインサートされる。ちょっと面白いんじゃないかな。あれは舞台で観るほうが映える話のような気がします。

参考資料(2025年映画興行収入ランキング)

https://pixiin.com/ranking-japan-boxoffice2025/

 

 

アニばら語り オスカルの最期

後悔と告解の語感が似ているのは多分偶然なのですが。

原作のオスカルとマリーは死に際しても戦いました。死ぬ時でさえ、前のめり。対して旧アニは、静かに死を受け入れています。生涯かけて戦ってきたのだから、死の瞬間でも戦う原作。

しかし旧アニのオスカルさよなら、で逝きます。マリーの最後の言葉は描かれていませんが、伏せた瞳が物語っています。彼女達は過酷な人生に抗い戦い続けた、その強さ。しかしだからこそ死の瞬間、何者にも侵されないほど静かに美しくいてほしいんです。

彼女達は山ほどの後悔も苦しさもあったはず。ああすれば良かった、もしかしたら愛する人を失わずにすんだ。どうすれば良かったのか。旧アニでオスカルはアンドレを失ってから、身を裂くほどの後悔におそわれます。愛していることに気づいていれば良かったのに!誰しも全て人生に満足して死ぬことはありません。どんなに素晴らしい人でも、あの時ああしていれば、という後悔は必ずあります。

アンドレを愛していることに気づかなかった己を責めたオスカルが立ち上がれたのは、自分の責務を思い出したからでした。一度はもう戦えないと挫けたオスカルが、アンドレの幻影を見て立ち上がる。その戦いの最中に空に白い鳥が飛んでいるのを見る。オスカルには、それがアンドレの魂に見えました。

死の間際路地の上の小さい空の上で、白い鳥が飛んでいた時、オスカルは自分を許し許されたのだと思います。私はこの生涯で、たくさんの過ちを犯した。愛する人も失った。しかし、すべてにおいて逃げずに戦った。だからオスカルは静かに逝くことができたんです。それこそがオスカルが生涯戦ってきたことの証左だと思います。

自分を許して逝ける。それがオスカルという人です。

 

 

 

劇場版鑑賞記(ネタバレあり)

記憶と熱が冷めない間に鑑賞記を書いておきます。ただ寝不足の上にガンダムGQuuuuuuXとハシゴしたのとw後述する要因で記憶曖昧なところもあります。かなりネタバレも含むので、バレ回避したい方は閉じてください。

続きを読む 劇場版鑑賞記(ネタバレあり)

アニばら語り オスカルが核であること

 

3)それでもオスカルが核であってもよかった

オスカルの核はアンドレ。しかし私はオスカル自身が核であっても良かったんじゃないかと思っています。

アンドレは貴族の元にいながら民衆側(被支配)でしたが、真の越境者はオスカルです。男女のどちらにも属しながら属さず、つねに境界にいます。支配階級に生まれながら、民衆側につきます。
このような思想運動において、外部の視点は内部崩壊を防ぐためにも必須です。自説のみに拘泥した運動はほぼ瓦解しますから、精神的核においても、越境者で双方の視点を持つオスカルを置くべきだったんじゃないかと思います。
監督はそのように考えなかったのか、1クール削られて単純に尺が足らなかったのか(ジャイアンツ戦滅せよw)わかりませんが。

いずれにせよ、フランス革命(普遍性)と全共闘(時代性)を融合した作品であり、歴史群像ドラマであったことは間違いありません。

 

以上、大変長くなりましたが、私のアニばら考察でした。お読みいただきありがとうございました。

 

←前へ

アニばら語り アンドレが核であること

 

2)アンドレが核であること

アラン達にとって、核はオスカル。そしてオスカルにとってはアンドレが核。アンドレが見ている新しい世界を示してほしい、それに「従う」なんです。男女の支配非支配ではなく、道を示すもの=アンドレ。という構図です。そしてなぜオスカルにとってアンドレが核だったのか。

前述したように、オスカルは広い視野を持っている人でした。ロザリーと再会した時、困窮する民衆とその強さ(アニメではロザリーはジャルジェ家に戻りません)を知りました。その後アンドレの左目が失われ、オスカルは彼の目が見ている世界を意識したでしょう。
そして失明させたベルナールをアンドレが許すように言った時。オスカルはアンドレと自分の見ている世界が違うと気づきました。衛兵隊に移ったのは私を捨て義に生きるためでしたが、そこで命を担保に軍に入った兵士の現状も知ります。

身分制度の歪み、王政のゆらぎ、民衆の怒りとエネルギーを感じた。その時オスカルはアンドレならどう見ているだろうと考えた。彼の失った左目。不自由でないはずはありません。それでも傷つけたものを許せと、ベルナールは盗賊じゃない、民衆の代弁者だと。オスカルは自分とアンドレ、複眼でみることで時代の歪み、方向性を知っていった。

12日の夜、アンドレは全て受け入れたうえで、前を向いていた。彼らの愛が阻まれない、人が身分で差別されない、そういう時代が来ることを望んでいた。その時オスカルは、アンドレがずっと自分の深いところで核であったことに気づいたんです。
だから、お前が見ている道に「従う」なんです。

 

←前へ 次へ→

 

 

アニばら語り アニメの時代背景 

1)アニメの時代背景

前述したように、原作とアニメの背景には六十〜七十年代初頭までの全共闘があります。私はアニばらは全共闘への鎮魂だと考えています。革命を求め、崩れて消えたあの時代への。

監督があの運動に対してどのようなスタンスだったかは分かりません。しかし七十年代が終わろうとする時、フランス革命を題材にしたアニメを作るにあたって、全共闘の空気はまだ身近だったでしょう。

後半アンドレ絡みで出てくるエピソード。アンドレが自身の目を傷つけたベルナールを許したこと、ベルナールがアンドレに民衆側につく人間だと言ったこと、衛兵隊が民衆側についた時ベルナールが擁護したこと。他にはベルナールとロベスピエールとの対立、等々。
その世代にとって、このようなエピソードはフランス革命というより全共闘運動のそれです。全共闘運動には様々なセクトがあり、その支柱となる言説なり人物なりが精神的核でした。

次へ→

アニばら語り オスカルの7月14日

全て終わった、遅すぎた。打ちのめされたオスカルは民衆の声で目覚めます。朦朧として目覚めた先にアンドレが立っていた。
オスカルにはまだ公と義が残っていて、そして何より大切な私=愛する心、消えていませんでした。アンドレの幻を見るほど。

私はまだ生きている、戦える。生きる為に戦え。彼が望んだ、死の間際まで見ていた新しい世界を手にする為に。私が彼を想い信じている限り、彼はきっとそばにいる、今までずっとそうであったように。公も義も愛する心も全て私だ。

オスカルの物語はここで終わります。

 

アニメ後半について、特に37話以降について全然語り足りませんが、語り尽くせないんですよね。そもそも語れるなら二次小説書いてない。語りたいことはSS等で書いていますので、良かったら読んでみてください。諸々含めて数百本あるけど笑

 

←前へ

アニばら語り オスカルの愛する心

オスカルの私(わたくし)とは、深いところで人を愛する心でした。

私的に原作とアニメの最大の違い。原作では「遅すぎなくてよかった」アニメでは「気づくのが遅すぎた」この違いは?

アニメオスカルは常に公・義を表にしています。ロザリーや王太子に対してなど柔らかく暖かな心を出す時もありますが、自身の愛する心は深く秘めます。フェルゼンに対しては王家を守る義に反するから。アンドレには傷つけたくない守りたいという気持ちから、秘めてしまう。
しかしアンドレを愛し幸福になることを自分に許した時、ようやく言葉にすることができました。それほどオスカルにとって、愛する気持ちは深く熱いものだったんです。しかしそのアンドレを失った。

「ずっと愛していたのに気づくのが遅すぎた」
オスカルの心の一番深いところに、アンドレと築いた信頼と長い年月がありました。失ってからその年月を振り返った時、いつも彼が心の底にあり、その瞬間全て愛していたと気づいたんです。
あの時も、あの時も、愛していたのに。いまその人はいない。どうして、もっと早く気づかなかったのか!泣き叫んでもその人はかえらない。だから「遅すぎた」もっと時間があると思っていた、幸福にながらえる日々があると思っていた、でも全て遅い。だから
「裏切るよりも、愛に気付かぬほうが罪深い」

「もはや全ては終わったのだろうか」
オスカルの苦しみはそれほど深い。

←前へ 次へ→

アニばら語り オスカルの誠実さ

 

軍人として揺らがない信義を持ち、また兵達の信頼を得るために誠実であること。オスカルはそういう教育を受け、公では感情をあらわにしませんし、生来の性格もありとても誠実でした。
激情を向けるのはアンドレだけです。アンドレの左目が失明した時、近衛を辞めることで争った時。アンドレに関してアンドレに対してだけ感情を露わにします。しかし愛されていることを知ってからは変わります。
アンドレを遠ざけたこと、アンドレを愛していると気づいても告げられなかったこと、これは全てオスカルの誠実さです。

愛を返せないから遠ざける、目を奪った私が愛を告げられない、戦うことを捨てられないのに彼を連れていけない。誰よりもアンドレが大切だったから、オスカルはこれ以上アンドレを傷つけたくなかったんです。目を奪い、苦しめた上、命まで危うくさせることは。
義を切り離せず戦いに臨む私はひとりで行く。アンドレは平穏に生きてほしい。しかしアンドレはこれまでもこれからも共に生きる、と言います。それでもオスカルはかつて他の男性を愛しアンドレを傷つけたことで怯む。傷つけ目を奪って命まで危うくする。彼の答えは

全て愛している。

 

オスカルはそこでようやく、公も義も私も抱えて生きることを、アンドレを愛して幸福になることを、自分に許せたんです。

 

←前へ 次へ→

アニばら語り オスカルの公と私

 

忘れられがちですが、オスカルは軍人(公)です。軍という強力な暴力装置を律するため、国を守るという(義)があります。オスカルにとって、まずは公と義があり、次が私(わたくし)

義とは国=王家を守ること、オスカルはそう教わり信じてきました。しかしやがて国=王ではないと気づく。国とはそこに生き根ざし種蒔く人達であると。オスカルは目を開けて生まれた人ですから、視野は広く考えは深い。特権階級で生まれ育ちながらも、次第にどこかおかしいと気づき始めたでしょう。
大きな転機はアンドレの片目が失われた時。オスカルは責任を感じて、アンドレの眼を、半分失われたアンドレの視界を考えた。アンドレの眼で見た世界を。それは彼女自身が見ていたのとは違う世界。持てる者と持たざる者の視点の違いです。
そうやってアンドレの眼、アランや衛兵隊士の眼で世界を見る。王や貴族が全てではなく、国とはそこに生きるすべての命あるものだと気づいた。気づいてオスカルは公と義を捨てられなくなります。それに対して私(わたくし)が相反もします。

ある時期まで公・義と私は反しませんでしたが、フェルゼンを愛したことで揺らぎます。国を守る義に反する私。オスカルは苦しんだ末、私を捨てます。(アンドレは私を捨てて生きるのはオスカルではないと止めますが)そしてその後、もう一度相反することになります。アンドレです。

 

→次へ

アニばら語り 従う発言

 

オスカルの従う発言。これもまた物議を醸している台詞。これを男性監督による男性への従属であると捉える向きも多いですが。私は別の捉え方をしています。

あの言葉の意味は「あなたに全て委ねる」ではなく「あなたを信頼する」ということなんです。
例えるなら、戦場で生死ギリギリの状況になった時、この人の信義なら信じられるという相手。アラン達はオスカルをそのように信じ、オスカルはアンドレを共に戦う人として信じている。

オスカルはどれだけ愛されたとしても、相手に人生も判断も全部委ねることはしません、それは依存です。依存ではなく、信頼。アラン達もオスカルを信じていますが、人生まで委ねていないですよね。それと同じ。オスカルはアンドレの見ている世界、望んでいる未来を信じたんです。

 

お前の見ている未来に私も行きたい、だから道を指し示してくれ。そこに到達するために「従う」人生を委ねるのではなく、共に戦うために。

 

それはオスカルの心からの望みで選択でしたし、その時のオスカルが身分の上下、男女の権力差というものに囚われていたとは思えません。ただ愛し信じた。

ではどうしてオスカルはアンドレをそれほどに信頼したのか。それはまた別で語ります。長いですがw

 

アニメの時代背景

 

アニばら語り 原作とアニメの違い

ベルばら原作とアニメの最大の違い。それは作られた時代背景の差だと思っています。

原作72〜73年
アニメ79〜80年
たかだか6年ですが、この差は大きい。

そしてオスカルの最期の描写。
原作「フランス万歳」
アニメ「アデュー」
この温度差。それは当時の若年青年層の熱気の差でもあります。

原作連載当時の若者達の熱気と狂乱は令和の今想像しにくいですが、凄まじかったようです。才能ある若いクリエイターとして、原作者は時代の空気を敏感に感じたでしょうし。オセローをコミカライズするなど歴史に興味があるなら、合体せたのは必然とも言えます。そして作品は革命を美しく描いていました。

ただし実際の学生運動は当然美しいものではなく、凄惨な闘争で大勢の若い人が亡くなりました。それは連載時、72年のあさま山荘事件等で明らかになっています。それでもオスカルは「フランス万歳」で死ぬ。当時の原作者が何故この最期にしたのか。理想に身を投じたことが美しいとしたのか、まだ革命の理想は生きていると感じていたのか。解釈はできますが、わかりません。

その6年後のアニメ。原作者と後半監督は4歳違いの同年代。当然連載当時の時代感も知っています。しかしこの間の空気はおよそ違っていました。学生闘争の凄惨さが明らかになり、次世代は政治や社会に冷淡に無関心になります。理想は泥に塗れました。
監督も既に青年ではありません。その時代その年齢で、数年前の狂乱を見返した時。強烈な敗北感があったのではと思います。なぜ理想が暴力に塗れ自壊していったのか。時代を生きた者として、苦い思いはあったでしょう。

だから革命の美しさを讃えた話はそのまま描けない、戦った者達は果実を取れない。だから「さようなら」
アニばらのキャラ達は皆、果実を取れなかった人達です。アニメのオスカルは自分が果実を取れないことをおそらく知っていましたし、アンドレも同じだと思います。義憤や利他や、まして理想ではなく。その時代に眼を開けて生まれた者として、己が道を選んだオスカル。そしてそのように逃げずに生きる彼女だからこそ、アンドレはそばに居続けました。

ここで再確認しておきたいんですが。「原作もアニメも、歴史を背景にした骨太なドラマである」ということです。恋愛は重要素ではありますが、副次的です。
両作品とも普遍的なテーマと時代性を見事に融合させています。原作もアニメも恋愛漫画ではなく歴史ドラマとして捉えなければ、キャラクターの背景、表現されている時代性、作り手のスタンスその他、見落とすものが多いと思いますし、それは作品にとって非常に残念なことです。

アニばら語り アンドレの最期

何かと物議のアンドレの最期。私はアリだと思ってます、アリ寄りのアリ、むしろ全肯定!なぜならば、庇って死なれるのはオスカルが辛すぎるからです。

勿論死別の慟哭は限りなく深いけど、それ以上の重荷なんてこの波乱の人生の女性に負わせたくない。アンドレも死にたかったはずはない。絶対にオスカルの死は見たくなかっただろうけど、それはオスカルも同じ。

そして事実上の内戦状態で兵士が死ぬ。それは全く美しい行為でも情景でもないんです。あの時傷ついた兵士も死んだ兵士もいて、アンドレはその中の一人だった。流れ弾だろうが庇おうが死の事実に変わりない、一人の兵士の死。そういうアンドレの最期だったと思います。

流れ弾だから無駄死に、庇ったから美しく賞賛される死。

アンドレの人生の価値はそのようなもので毀損される程度ですか?アンドレが人生かけてオスカルを愛したことは、流れ弾で無駄になりましたか?

私は死に優劣や価値をつける考え方が好きではありません。それが残された者の慰めであったとしても、人生は生が決めるものです。

アニばら鑑賞記 26話

 

アニばらに関したツイートをまとめた鑑賞記です。
【】はツイート「」は作中台詞、その他は追記になります。追記は随時追加・変更。

 

26話「黒い騎士に会いたい」
地味な回ですが後半のターニングポイントでもあると思う。

【オープニングの時代劇感・・フランス版銭形平次】
銭形平次でこんなの見たことがあるw 骨董品的演出ですね。

「こうまでして捕らえる必要があるのかな」「盗人は盗人だ」
アンドレとオスカルの温度差が如実に出てます。黒い騎士がアンドレかもしれないという不安を抱えているとはいえ、黒い騎士が出てくる背景を慮るアンドレと、理を通そうとするオスカルの齟齬が後半にもつながります。

「誰なんだ?アンドレか?・・そうなのか」
アンドレに知らない暗い一面がある、という不安からの悪夢。アニばらではオスカルとアンドレの個が強くて、各々独立してる。お互いにどうしても寄り添い合えない壁が確かに在る。

「貴族なんて家柄と権力を守るだけ」
端的かつ的確な指摘。一時は貴族の中に入っていたロザリーが貧しくとも自力で生きていける市井に戻ったことで、オスカルの心に何かが刻まれたと思います。

「新しい時代を知るため」
アンドレの中にはずっと小さな種があった。オスカルと自分との間の強固な壁は何故あるのか?その壁を意識し超えたいと思うからこそ、足掻いている。その渇望こそが彼の愛でもあるので。

「会ってみたい」
オスカルが時代の変化に気づき行動したのは、アンドレの言葉もあると思います。ずっと傍にいて信頼している相手の言葉は重い。

【「お前は貴族ではないのだから」オスカルがそこはかとなく寂しげに感じる】
【アンドレが身分差を意識するのと同様に、オスカルもアンドレを縛りつけてはいけないという自制があったのかも】
沈むばかりの貴族社会であることをオスカルは前から感じていて、だからこそアンドレを巻き込みたくないと思っている。お前まで沈む船に留まらなくていい、お前は自由なのだから(私と違って)オスカルは無意識に己に無い自由をアンドレに投影してるのかもですね。

 

←前へ 次へ→

 

 

 

 

アニばら鑑賞記 25話(追記

ベルサイユのばらアニメ大解剖」発売に伴って、再見したアニメベルサイユのばら。
Twitterで呟いた鑑賞記をまとめ+追記してこちらに転載します。

【】ツイート「」作中台詞 その他は追記です。追記は随時変更・追加予定。

25話「かた恋のメヌエット」

アメリカから帰国したフェルゼン。アントワネットとの恋は終わったというが、王室に対する民衆の憎悪と貴族の離反を聞き、アントワネットの力になる為に宮廷に戻る。そしてオスカルは一度限りのドレスを着て舞踏会へと向かう。

フェルゼンに駆け寄るオスカルを見てるアンドレの表情が・・】
思いがけず現れたフェルゼンにオスカルは駆けよる。その後ろ姿を見ているアンドレの表情です。寂しげでもあり辛そうでもあり。

アンドレはずっとオスカルの背中を見てきたから、駆け寄って行く彼女がどんな顔をしているか、判る。嬉しく愛に溢れていることも。

【フェルゼンがもう終わったと話す時のオスカルの表情がなんとも言えん】
アントワネットとの恋は終わった--熱情のようだったフェルゼンと王妃の恋、しかしフェルゼンの顔は穏やかで落ち着いている。ならば私の想いも届くだろうか?そう考えるオスカルの心が揺らいでいるのが判るシーンでした。

【アニメオスカル、全般に伏し目がちなんですけど。それがなんとも言えず色っぽいんですよ】
アニばら特に後半は、オスカルはよく目を伏せます。台詞で語らない分、眼と表情で立っているアニメでした。

【観てると判るんですが、アントワネットは伏し目にならないのね。目を落とすのは最終回の処刑のシーン】
オスカルと対照的に、アントワネットは目を伏せません。泣くときですら、顔を上げる。それがアントワネットという女性であるという演出。

【そしてオスカルのピアノを聞きながら、拳を握りしめるアンドレ】
アントワネットの元へ戻ったフェルゼンの苦しい告白を聞いた後、オスカルは激しくピアノを弾いています。アンドレは厩舎でそれを聴きながら、手を止めてピアノの音を追う。オスカルの気持ちが痛いほどわかるから辛く、オスカルが苦しむのも辛い。

そして舞踏会に現れたオスカルは何も語らない。基本的にアニばらオスカルは自分の心を語ることをしないけれど、語らないからこそ溢れだすものもあると感じられる演出。

 

25話を振り返ると、前半のフェルゼンの諦念で安穏に進むかと思えた話が、銃撃という暴力によって一変する。フランスにかかる暗雲という縦糸と、オスカルの恋心の横糸が絡み合う回でした。こういう緩急の付け方が上手いと思う

※修正入れました。ありがとうございますm(__)m

 

次へ→