曇天(長いお別れ 二次創作)

私のように生まれついた者にとって、結婚とはただ壜に入った酒を傍に置くのと同様だった。偶さか取り出して味わう。壜そのもの、酒それ自体が変わっても何の不都合も無い。ただ嗜むために酒がある、それだけのことだ。

 

しかし私は、迂闊に壜を取り換えるわけにはいかなかった。夫は壜に甘んじてはいたが、酒を忌み嫌っていたからだ。あの男は酒を断ったのだな、晩餐の席で父が呟いていたが当たっていたのだろう。だから私が酒に近づくのを許さなかったし、また瓶ごと自分を叩き潰してしまえる私の父も怖れていた。
父が不快に感じれば、夫も私もひねりつぶすのは簡単だ。娘だからと言って躊躇するような父ではない。私も幼い時は父を怖れ身を慎んでいたが、妹は反発した。妹は父の向こう見ずな強さだけを受け継いだ。だから私は、父を失望させるわけにはいかなかった。私が身を持ち崩せば、この家族とも言えない繋がりは瓦解するだろう。それは正しいことではないように思えた。血は繋がっているのだから、夫として定めたのだから、形だけでも繋ぎ止めなくては。関係を持続させることは、私にとっても益になるはずだ。私は父の残酷な冷徹さを受け継いでいた。

しかし父のような有能さはなかった。お父様は私の事なんてどうでもいいのでしょう、と荒れる若い妹を宥められなかったし、君は私のことを侮っているのだろう、そう問い詰める夫を説得することもできなかった。妹は全く手に負えなくなり、夫は私が横を向いただけで怒りだす。何処から間違ったのだろう。私は疲れていた。疲れて、ただ惰性だけで生きていた。だからその均衡が破れてしまったことに、驚きながらも心の底では安堵した。

妹が殺された。道端で拾い上げた妹の夫によって、この上ない残虐な方法で。

私だけは判る。父は憔悴していた。感情など枯れ果てていると周囲の者は思っていただろう。しかし妹の訃報を――それは殺人者から直接聞かされていた――聞き、父は嘆いた。有り余る富を築きながら、ひとりぼっちの父。そのこと自体に傷つきはしない。が、己が取りこぼしていったものが二度と取り返せないことの寂寥を味わっていた。だから“彼”にも父は感じやすいのだと言ったが、信じてもらえなかったようだ。

彼――妹を殺した殺人者の友人であり、逃亡を手助けした。投獄されたが罪に問われないまま釈放された。それは父の力が影響している、あるいは直接関っていることは彼も十分承知だった。それなのに父に対して怖れるどころか、忌憚のない無礼な態度をとる。
彼は友人を信じていた。あの男はそんなことはしない、そう心から信じているようだった。仕事柄、疑うことのほうが多いはずなのに、どうして信じていられるんだろう。

自分の判断を信じられなくなったら、この仕事は出来ない。あらゆる人間を疑い、あらゆる悪い可能性を考慮する、その選択肢を一つ一つ洗っていく。そうやって仕事をする。でなければ、家庭を持って新聞の日曜版を読むような男になっているさ。
私も彼のように、父や妹や夫を信じられたら良かったのに。いえ、

私自身を信じられたら良かった。

 

結局、彼が正しかった。妹の夫、彼の友人は殺人者ではなかった。妹を殺した者の手記が新聞を飾り、私は自分が何も知らなかったことに気づいた。妹を心配しながら、妹を取り巻く危うさを放置した。夫が弱い心から自身を守ろうとしているのを、疎んじ遠ざけた。誰も信じず、だから間違った。
彼に惹かれたことも間違いだろうか。傷つき弱った心をただ寄せたいだけなのだろうか。判らない。自身を信じられない者は、正しさを求める解すら見いだせない。

 

私はパリへ行く。正しさを見つけられなくても、自身を信じられなくても、行動しなければならない。夫と別れ、父の庇護を離れ、私は自分で歩く。私の弱い心は、彼を求め彼から拒絶されたことで終わった。

もうすぐ搭乗だ。空は曇って暗い。パリの空も同様だろう。それでも私は、それだからこそ・・・私は。