秘事

夜は暗い。

 

夏の太陽はいつまでも地平に落ちないようだった。霞んだ雲を朱に染め、ようやく重苦しく熱い一日が終わろうとする。その夕刻に伝令が二人、館を訪れた。伝える兵士の声は震えている。階上で聞いていたオスカルは眉を上げ、「来たか」とだけ呟いた。背後の彼は何も言わず、目を伏せた。

夜の闇が全てを覆う時間は少なく、二人の眠りは短く深い。束の間の熱を貪ったあとは、汗をかいた身体のまま微睡んでいく。重い湿気の寝苦しさに、常には見ない短い夢を見る。

深い夢

 

夜の底で

 

 

 

―――お前は誰だ?

お前が望んだ私だ。結婚し子を生み女として生きた私。

――――望んでなどいない

己に嘘をついてはいけない。一度でも望まなかったと何故言える。

―――それは私の生き方ではないからだ

どちらが“私”なのだろうね。私もお前も同じ顔をしている。服を脱げば差異などない。

――それこそが違いだ 表層はその人物を表す 軍服とドレスは全く違う だからお前は私ではない

おかしなことを。一度だけドレスを着たお前は私だっただろう。あの時、恋する男の腕に抱かれて何を望んだ?そのまま抱きしめられ口づけされたいと、一瞬でも望まなかったのか。その先に私がいる。望めばいい、重い肩章など振り落とせ。子を生む性に従ってしまえば、心静かに生きられる。

――笑止 静かに生きることなど それこそ望んだことはない 炎に焼かれながら生きる それが私だ

そのような女は祝福されない。軍服を着て兵士を指揮し、馬に跨る。神は女をそのようには作らなかった。お前は摂理に反する者だ。

――神が罪とするならその罰を受けよう 兵士が私の命令で死ぬなら同じだけの痛みをこの身に受けよう 身を裂かれ地獄に落ちようとも 私は戦うことを選択する

戦うからには勝たなければ意味はない。敗北が決まっている戦いは命を無意味にするだけだ。意味のない死を与えられた兵士達の慟哭は、地獄の業火より身を苛むぞ。

――敗北は無意味ではない 戦わずして屈服することが生きながらの死となる 戦うこと命を賭して抵抗すること 我は此処にいる 我は生きると声をあげ続けること それこそが勝利だ

そして歴史の闇に沈んで忘れ去られるというのか。血を繋ぐ子をもうけることもなく、お前が生きたことを覚え伝える者もいない。

―――忘れられていい 闇に沈み全て消え去ってしまっても 私が故国の大地に流した血は 深く土に沁み込みいつか種が芽吹く それだけでいい 他には何も望まない

何も望まない?

――そうだ

彼の幸福も?

―――――それは

彼はお前の幸福だけを望んでいるというのに。

――知っている 彼がどれほど長い間私を見つめていたか 声に出さない声で語り掛けていたか

ならば彼と共に生きればいいだろう。戦わずとも、二人で何処かで穏やかに暮らす。そうして生きればいい。

――だがそれは彼の望みではない 彼は私が私であることを望んでいる 迷い間違え挫けたとしても 私が私自身の生を選択すること そのために待っていてくれる 彼の望みが私の約束なのだ だから私は戦う

約束、か。

―――そうだ 私は決して違えない

その道を違えることも、逃げることも無いとお前は誓ったのか

――違えれば、それはもう誓いではない

ならばもう・・・私は必要ないのだな。

―――別れを言うべき時が来た 忘れはしない 戦いの場にお前も連れていくよ

私はお前の中に還るのか。

――さようなら もう夜が明ける 夢は覚めるんだ

さようなら。ああ、夜明けだ。新しい清浄な光が・・・・満ちる。

 

 

細く白い光が瞼にあたり、オスカルは目を覚ました。東の窓に夏の曙光がぼんやりと光っている。彼女は傍で眠る恋人に目を向けた。
黒く長い睫毛に縁取られた瞼が、かすかに揺れている。恋人を起こさないよう、そっと閉じられた眼に触れた。指先が濡れる。彼は悲しい夢を見ているのだろうか。

眠っていたはずの彼の腕が、背中に回された。ゆっくり瞼が開き、いつもの黒い瞳と微笑みがあった。
「アンドレ・・」
彼は返事の代わりに、彼女の額にキスをする。柔らかく暖かい唇。
「ひとつ、約束してほしい」
「何を?」
彼が愛しげに金の髪を撫でている間にも、曙光は部屋に満ちてくる。
「明日も明後日も、その先も。こんなふうに朝を迎えられるなら。お前が私のそばにいてくれるなら」
「死がわかつまで、そばにいるよ」
彼女は半身を起こし、彼の左頬に手を当てた。黒髪がはらりと落ちて、瞼の白い傷痕が見える。
「何処かの教会で式をあげてほしい。お前を夫とし私を妻として。永遠に、死しても離れないと・・・誓って」
「・・約束する」
彼の傷跡にキスを落として、胸に顔を埋め鼓動を聞く。これだけが確かなもの、これだけは失いたくない。

お前―――私の中の奥深く潜んでいた、もうひとりの私。もう私はお前を隠さない。お前はもう秘められなくていい。私はお前だ。戦うことと女であること、それが全て私。忘れはしない、消えもしない。お前と共に、夫と共に、私は戦い、生きる。

7月の短い夜が明けた。二人は東の窓の向こう、薄青く広がる空を、今日と明日を見ていた。長い夏の一日が、始まる。

 

 

END