祈りの言葉

 

夏の近づく夜はいつまでも茫洋として明るい。短い夜にふたりでワインを傾ける。馬車が襲撃された時の傷がまだ痛む。彼女も俺より軽傷だったとはいえ、ブラウスの袖口から包帯がのぞいている。しかしグラスを持つ手も、口元に運ぶ動作も震えてはいなかった。ただ、伏せた目元の睫毛だけが揺れている。

その影が落ちる頬に触れたい。最近いっそう肌の色は青白くなり、頬は透けるようだ。触れなければ消えてしまうのではないだろうか。眼前にいて、赤いワインが唇を染めている女性は幻ではないのか。触れて、抱きしめて、消えいりそうな姿を留めたい。無意識にグラスを置き、彼女に手を伸ばそうとして、痛々しい包帯に気づく。はっとして手をとめた。

 

―――――彼は貴族じゃない、違うんだ!

彼女の姿は見えなくなったのに、群衆の怒号の中から悲鳴のような声が聞こえた。駄目だオスカル、逃げろ。そう言おうとした矢先、棍棒が振り下ろされた。ぐらつく視界が赤くなる、身体の力が抜けていく。ここで死ぬのか。混濁した意識が沈み込む間際、遠くから名前を呼ばれた気がした。誰が呼んでいるんだろう・・・。

意識が戻った時、彼女が傍にいた。泣いていた。その頬に触れると、俺の手も濡れた。涙は暖かく、幻ではなかった。呼ぶ声も。

 

いつの間にか、ワインの瓶は空になり、傾けていたグラスも飲みほした。彼女は指先でグラスの淵を弄びながら、爪先で小さく叩く。キンッとした細い音が夜のしじまに響く。向かい合いながら、二人ともおし黙ったままだった。何かを伝えたい、手を取りたい。その願いが、声も動きも止めている。夜風が窓から吹き込んできて、卓にいけられた薔薇の花弁がぽとりと落ちた。

息を止めていた静寂がその微かな音で破られ、俺は立ち上がる。おやすみを告げると、彼女の身体が震えた。触れたいという衝動を押し留め、部屋を出ていく。扉を閉める寸前、呼ばれたような気がしたが、彼女は目を落としたままだった。

―――――あとどれくらい、こんな夜が続くのだろう。そして・・こんな夜が続けられるのだろう。

視力を失えば彼女のそばにはいられなくなる。失わずとも、彼女に触れずにいることの苦痛は和らぎはしない。それでも残された時間が短いなら、彼女のそばに留まっていよう。命を賭す危険に向き合い続ける彼女のそばに。

自室に向かう冷たい階段を昇る。部屋の灯をつける前に、ふと空を見上げる。夏の満天の星。幼い頃は、俺の部屋が一番星に近いからと、一緒に星を眺め話をした。星座の話、英雄の冒険の話、故郷で母に聞いた御伽話。話す間に眠くなり、小さなベットでそのまま寝入ってしまった。祖母に禁じられてからは、彼女の提案で秘密の合図を作った。

―――――私の部屋の南の窓に影が映ったら、灯りを揺らす。それが合図。

あの約束はいつまで続いたのだったか。今夜再び、彼女の部屋の窓を見下ろす。影が映っていた。幼い頃より大きくなった影。

カンテラに灯りを入れる。小さな赤い火を掲げて揺らす。彼女は見ているだろうか、昔のように手を振っていてくれるなら・・。

 

 

―――――おやすみ、オスカル。お前にやさしい夢がやって来るように、祈りながら眠るよ・・・おやすみ。

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