蝶の見た夢 後編

「・・お久しぶり、です」
ここに来るつもりじゃなかった。いや、本当は来たかったのか。
「隊長・・アンドレ。俺は来るべきじゃなかったかもしれないけれど・・でも」
ふたつ並んだ白い墓標の前に座り込み、手にしていた薔薇を置いた。白い薔薇、アンドレはきっと白が好きだっただろう。
「フランソワの弟に会ってきました。あいつによく似てます。大人になって、子どもも生まれる。幸せそうでした・・だから、言えなかった。あの時も・・フランソワの最期のことを」

あの日、大砲を撃っていた俺の横で、フランソワが撃たれた。あいつは倒れて、驚いたような顔で、俺に手を伸ばした。駆け寄ろうとすると、俺の前にも弾が飛んできた。俺は咄嗟にフランソワの銃を取り、塔の上の兵士に向かって撃った。何度も・・それから、その兵士が落ちてきた。俺の弾が当たったのかはわからない。あの喧騒の中なのに、俺はその男が落ちる音が聞こえた。低く鈍い、なにかが潰れる音。
そして振り返った時にはもう、あいつの目は動いていなかった。俺の方に手を伸ばしたまま。

「どうして・・どうして、残ったのは俺だったんだろう。おふくろも妹もいなくて、帰りを待つ人もない。死ぬのは俺で良かった。フランソワじゃない、あなたでも、アンドレでも。だから遺されたなら、俺がやるしかないと・・思った。」
あの日、夜が更けてからひとり、教会の懺悔室の中に入った。暗い狭い箱の中で、祈るでもなく語るでもなく。
俺には多分、わかっていた。この先、もっと血が流れ続けるだろう。石畳を染める血と、屍の山の上で俺は戦い続ける。ずっと奪われ続けてきたのだから。妹も母も、大切な人も友人も仲間も、自分の人生を選ぶ権利も。戦わなければ何ひとつ手に入らない、あいつらの分も背負って俺が戦うのだと。

でも

それでも___________

俺は、もう奪いたくなかった。悲嘆にくれ、身を引きちぎるほど嘆く声を、背中で聞きたくなかった。見開かれた目も、人の潰れる音も。俺が何もかも奪われたように、見知らぬ誰かから、奪いたくなかったんだ。
誰か、もういいのだと言ってくれ。これ以上、手を血で汚さなくていいのだと。ただ亡くした人々を悼みつづけて、生きるだけでいいと。

俺はその夜始めて、泣いた。声を出さず、身を絞るようにして泣いた。あの夜、もしかしたら俺は、別の人生を選べたのかもしれない。暗い部屋から出て、遠くの村で、妹と母の墓を守りながら暮らす。そんな人生が・・。
「ふふ、絵空事。夢物語です。そんな人生はなかった、許されなかった。フランソワの弟に言ったから。俺がやる、王室を貴族を、俺たちから奪ったやつらは俺が倒す。あの日始まったばかりの革命を、俺が最後まで見届ける。あなたの、あいつらの代わりに、命ある限りは、と」
風が吹いてきた。置かれた薔薇が揺れる。香りが漂う。これはああ、あなたの香りだ。ずっと・・この・・・花の香が・・・・。

『同じだ・・アラスでオスカルとアンドレの墓も並んでいる』
『考えてみりゃ、幸福な二人だったな』
ディアンヌとおふくろの墓は畑のすぐ近くにある。その傍で、俺は薔薇を育てている。夏に咲くと、海風を受けて香りが広がった。懐かしく、愛しいその香り。
『アンドレならきっと・・白が好きだって言うぜ』
俺は紙でできた白い薔薇を、ロザリーから受け取る。いつか晴れた日に、海に流してほしいと。そして、今日も波の音を聞きながら眠る。
明日、晴れていたら、薔薇を流そう。それから畑に戻る。土に鍬を入れ、草を取って肥料をやり、日毎に成長するのを待つ。種を蒔き大地と生きる人生は、多分幸福なのだと思いながら。そしてまた、夢から覚めて朝を迎える。どこかで戦う自分が夢の中にいたが、それも記憶から薄れていって・・・・。

一瞬、冷たい風が吹き、目が覚めた。眠っていた?いや・・あれは本当に夢だったのか。村でひとり暮らしている俺の家に、ロザリーとベルナールが訪ねてきて、語り合った。話しながら見下ろした俺の手は、鍬を振るい続けた農夫の手だった。畑で鍬を持つ重さも、海風の湿り気も、膨らんでくる蕾を撫でたしっとりした感触も。そして薔薇の香りさえ、まだ身体に残っている。俺は、目覚めたのか?それとも、いまここが・・夢?

違う!あれは夢だ。戦っている俺こそ、現実だ。そんな人生はなかった、許されて穏やかに暮らす・・そんなことが。でも、あれはいつだろう。確かあなたから聞いた。
『胡蝶の夢、というのだよ。ある男が蝶になった夢を見た。目覚めた男は、果たして己は蝶の夢を見た男なのか、蝶が見ている夢なのか、と』
『そんなことって、ありますかね』
『でも夢の中では、夢と気づかないだろう。その中で生きている。ならば、今ここが夢でもおかしくないじゃないか』
そう言ったあなたは、どこか寂しげだった。俺はそれ以上、何も聞けなかった。もしかしたら、あなたも夢を見たんだろうか。今の人生とは全く別の、どこかで分たれたもう一人の自分を・・・。

俺は首を振った。薔薇の香りはまだ漂っている。この甘い香が見せた夢だ、そうに決まっている。許されて穏やかに生きる・・そんな夢を、薔薇が見せたんだ。いや、
「もしかして、あなたが見せたんですか。俺が許される夢を・・」
あの日なら、夏の夜、別の人生を選んでいたら、ありえたのかもしれない。全く別の、ひとりの男の人生。もしそんな男がいたなら。夢で見た世界が、どこかにあるのなら・・。

 

「一週間と、言ったはずだが」
「申し訳ありません」
「ふむ、まあよかろう。出かける前とは面構えが変わっている。無駄な時間ではなかったようだ」
「ええ・・素晴らしい日々でした」
答えると、ナポレオンはしばらく頭を捻り、黙り込んだ。この男にしては珍しい。
「・・アラン、私は部下にこの言葉を言ったことはない。だがあえて言う。死ぬなよ」
「それは・・」
「失うには、あまりに惜しい部下だ。私の行先まで見届けろ」
見届ける・・俺が見届けるべきものは。
「ひとつ、聞いてもよろしいですか」
「かまわんよ」
「あなたは、背負うものなどない戦いは無意味だと言った。では、あなたが背負うものは何です?」
問われた男は黙った。ただ黙って、俺の目をじっと、見ていた。まるで、あの時の誰かのように・・。
「私が背負うものなど・・何ひとつ、無い」
「・・・無い?」
「だが目指すものはある。フランスの栄光だ」
その声は燃えるようだった。頬は紅潮し、壁を突き破り天に向かうかのように、掲げた腕を高く伸ばす。
「太陽王がうち建て、貴族どもが地に落とし、無能な政治屋共が踏みにじった国の栄光を再び取り戻す。その為には足を取られてはいられない、ただ栄光の光を目指して・・昇る」
男の目の中で、炎が燃えている。血の色した赤い炎、あの人の瞳にあった炎とは違う。氷の中が燃えているような、透徹した青い炎とは。
「では・・あなたの戦いは、背負うもののないそれは、無意味だと」
「意味ではなく、意義があるのだ。負うものがないからこそ、私は国を栄光へと昇らせられる。君はそれを最後まで見届ける者になれ」
「では・・では、もうひとつだけ。栄光は・・革命の帰結なのでしょうか。これまで革命で命を落とした者たちの・・血の上に。栄光は・・」
「アラン・・」
ナポレオンの目の炎は、影を潜めていた。いつもの、兵士を鼓舞する英雄の顔に戻っている。
「革命の果実は、種を蒔いた者が刈り取るとは限らない。その実りはフランス人民皆が、享受すべきなのだ」

「実りは我々が勝ち取ろう。もうすぐだ、アラン。私と共に!」
その顔、表情、小柄な全身から溢れ出る力、相対した誰もが魅了され、この男のために命を投げ出す。語られる栄光の夢を、共に見るために。
「わかりました・・・あなたを何処までも、見届けます」
見届ける。この英雄が何処まで行くのかを。そして、その道の下に誰の血が流れているのかを。俺の目が閉じられるまで、決して目を逸らしはしない。

 

それから暫くして、シモンから無事に娘が生まれたと手紙が来た。名前は、ブランシュー白ー俺が考えていた名だった。
手紙を卓にしまう。夏の夜、寝台に横たわると、窓の外は新月なのか月明かりすらない。次第に瞼が下がってくる。穏やかな安らいだ眠りではないけれど、夢の中に入っていく。そこにもしかしたら、別の人生があって、薔薇を育てているかもしれない。夢で・・その男に会えたら、伝えられたら。

薔薇を、大切にしてくれと言おう。特に、儚く美しく芳しい、白い薔薇を・・・いつまでも__________________

 

 

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