タグ: アニメベルサイユのばら
アニばら語り アンドレが核であること
アニばら語り アニメの時代背景
アニばら語り オスカルの7月14日
全て終わった、遅すぎた。打ちのめされたオスカルは民衆の声で目覚めます。朦朧として目覚めた先にアンドレが立っていた。
オスカルにはまだ公と義が残っていて、そして何より大切な私=愛する心、消えていませんでした。アンドレの幻を見るほど。
私はまだ生きている、戦える。生きる為に戦え。彼が望んだ、死の間際まで見ていた新しい世界を手にする為に。私が彼を想い信じている限り、彼はきっとそばにいる、今までずっとそうであったように。公も義も愛する心も全て私だ。
オスカルの物語はここで終わります。
アニメ後半について、特に37話以降について全然語り足りませんが、語り尽くせないんですよね。そもそも語れるなら二次小説書いてない。語りたいことはSS等で書いていますので、良かったら読んでみてください。諸々含めて数百本あるけど笑
アニばら語り オスカルの愛する心
アニばら語り オスカルの誠実さ
アニばら語り オスカルの公と私
アニばら語り 従う発言
アニばら語り 原作とアニメの違い
ベルばら原作とアニメの最大の違い。それは作られた時代背景の差だと思っています。
原作72〜73年
アニメ79〜80年
たかだか6年ですが、この差は大きい。
そしてオスカルの最期の描写。
原作「フランス万歳」
アニメ「アデュー」
この温度差。それは当時の若年青年層の熱気の差でもあります。
原作連載当時の若者達の熱気と狂乱は令和の今想像しにくいですが、凄まじかったようです。才能ある若いクリエイターとして、原作者は時代の空気を敏感に感じたでしょうし。オセローをコミカライズするなど歴史に興味があるなら、合体せたのは必然とも言えます。そして作品は革命を美しく描いていました。
ただし実際の学生運動は当然美しいものではなく、凄惨な闘争で大勢の若い人が亡くなりました。それは連載時、72年のあさま山荘事件等で明らかになっています。それでもオスカルは「フランス万歳」で死ぬ。当時の原作者が何故この最期にしたのか。理想に身を投じたことが美しいとしたのか、まだ革命の理想は生きていると感じていたのか。解釈はできますが、わかりません。
その6年後のアニメ。原作者と後半監督は4歳違いの同年代。当然連載当時の時代感も知っています。しかしこの間の空気はおよそ違っていました。学生闘争の凄惨さが明らかになり、次世代は政治や社会に冷淡に無関心になります。理想は泥に塗れました。
監督も既に青年ではありません。その時代その年齢で、数年前の狂乱を見返した時。強烈な敗北感があったのではと思います。なぜ理想が暴力に塗れ自壊していったのか。時代を生きた者として、苦い思いはあったでしょう。
だから革命の美しさを讃えた話はそのまま描けない、戦った者達は果実を取れない。だから「さようなら」
アニばらのキャラ達は皆、果実を取れなかった人達です。アニメのオスカルは自分が果実を取れないことをおそらく知っていましたし、アンドレも同じだと思います。義憤や利他や、まして理想ではなく。その時代に眼を開けて生まれた者として、己が道を選んだオスカル。そしてそのように逃げずに生きる彼女だからこそ、アンドレはそばに居続けました。
ここで再確認しておきたいんですが。「原作もアニメも、歴史を背景にした骨太なドラマである」ということです。恋愛は重要素ではありますが、副次的です。
両作品とも普遍的なテーマと時代性を見事に融合させています。原作もアニメも恋愛漫画ではなく歴史ドラマとして捉えなければ、キャラクターの背景、表現されている時代性、作り手のスタンスその他、見落とすものが多いと思いますし、それは作品にとって非常に残念なことです。
アニばら語り アンドレの最期
何かと物議のアンドレの最期。私はアリだと思ってます、アリ寄りのアリ、むしろ全肯定!なぜならば、庇って死なれるのはオスカルが辛すぎるからです。
勿論死別の慟哭は限りなく深いけど、それ以上の重荷なんてこの波乱の人生の女性に負わせたくない。アンドレも死にたかったはずはない。絶対にオスカルの死は見たくなかっただろうけど、それはオスカルも同じ。
そして事実上の内戦状態で兵士が死ぬ。それは全く美しい行為でも情景でもないんです。あの時傷ついた兵士も死んだ兵士もいて、アンドレはその中の一人だった。流れ弾だろうが庇おうが死の事実に変わりない、一人の兵士の死。そういうアンドレの最期だったと思います。
流れ弾だから無駄死に、庇ったから美しく賞賛される死。
アンドレの人生の価値はそのようなもので毀損される程度ですか?アンドレが人生かけてオスカルを愛したことは、流れ弾で無駄になりましたか?
私は死に優劣や価値をつける考え方が好きではありません。それが残された者の慰めであったとしても、人生は生が決めるものです。
夜の宝玉
アニばら鑑賞記 26話
アニばらに関したツイートをまとめた鑑賞記です。
【】はツイート「」は作中台詞、その他は追記になります。追記は随時追加・変更。
26話「黒い騎士に会いたい」
地味な回ですが後半のターニングポイントでもあると思う。
【オープニングの時代劇感・・フランス版銭形平次】
銭形平次でこんなの見たことがあるw 骨董品的演出ですね。
「こうまでして捕らえる必要があるのかな」「盗人は盗人だ」
アンドレとオスカルの温度差が如実に出てます。黒い騎士がアンドレかもしれないという不安を抱えているとはいえ、黒い騎士が出てくる背景を慮るアンドレと、理を通そうとするオスカルの齟齬が後半にもつながります。
「誰なんだ?アンドレか?・・そうなのか」
アンドレに知らない暗い一面がある、という不安からの悪夢。アニばらではオスカルとアンドレの個が強くて、各々独立してる。お互いにどうしても寄り添い合えない壁が確かに在る。
「貴族なんて家柄と権力を守るだけ」
端的かつ的確な指摘。一時は貴族の中に入っていたロザリーが貧しくとも自力で生きていける市井に戻ったことで、オスカルの心に何かが刻まれたと思います。
「新しい時代を知るため」
アンドレの中にはずっと小さな種があった。オスカルと自分との間の強固な壁は何故あるのか?その壁を意識し超えたいと思うからこそ、足掻いている。その渇望こそが彼の愛でもあるので。
「会ってみたい」
オスカルが時代の変化に気づき行動したのは、アンドレの言葉もあると思います。ずっと傍にいて信頼している相手の言葉は重い。
【「お前は貴族ではないのだから」オスカルがそこはかとなく寂しげに感じる】
【アンドレが身分差を意識するのと同様に、オスカルもアンドレを縛りつけてはいけないという自制があったのかも】
沈むばかりの貴族社会であることをオスカルは前から感じていて、だからこそアンドレを巻き込みたくないと思っている。お前まで沈む船に留まらなくていい、お前は自由なのだから(私と違って)オスカルは無意識に己に無い自由をアンドレに投影してるのかもですね。
←前へ 次へ→
アニばら鑑賞記 25話(追記
「ベルサイユのばらアニメ大解剖」発売に伴って、再見したアニメベルサイユのばら。
Twitterで呟いた鑑賞記をまとめ+追記してこちらに転載します。
【】ツイート「」作中台詞 その他は追記です。追記は随時変更・追加予定。
25話「かた恋のメヌエット」
アメリカから帰国したフェルゼン。アントワネットとの恋は終わったというが、王室に対する民衆の憎悪と貴族の離反を聞き、アントワネットの力になる為に宮廷に戻る。そしてオスカルは一度限りのドレスを着て舞踏会へと向かう。
【フェルゼンに駆け寄るオスカルを見てるアンドレの表情が・・】
思いがけず現れたフェルゼンにオスカルは駆けよる。その後ろ姿を見ているアンドレの表情です。寂しげでもあり辛そうでもあり。
アンドレはずっとオスカルの背中を見てきたから、駆け寄って行く彼女がどんな顔をしているか、判る。嬉しく愛に溢れていることも。
【フェルゼンがもう終わったと話す時のオスカルの表情がなんとも言えん】
アントワネットとの恋は終わった--熱情のようだったフェルゼンと王妃の恋、しかしフェルゼンの顔は穏やかで落ち着いている。ならば私の想いも届くだろうか?そう考えるオスカルの心が揺らいでいるのが判るシーンでした。
【アニメオスカル、全般に伏し目がちなんですけど。それがなんとも言えず色っぽいんですよ】
アニばら特に後半は、オスカルはよく目を伏せます。台詞で語らない分、眼と表情で立っているアニメでした。
【観てると判るんですが、アントワネットは伏し目にならないのね。目を落とすのは最終回の処刑のシーン】
オスカルと対照的に、アントワネットは目を伏せません。泣くときですら、顔を上げる。それがアントワネットという女性であるという演出。
【そしてオスカルのピアノを聞きながら、拳を握りしめるアンドレ】
アントワネットの元へ戻ったフェルゼンの苦しい告白を聞いた後、オスカルは激しくピアノを弾いています。アンドレは厩舎でそれを聴きながら、手を止めてピアノの音を追う。オスカルの気持ちが痛いほどわかるから辛く、オスカルが苦しむのも辛い。
そして舞踏会に現れたオスカルは何も語らない。基本的にアニばらオスカルは自分の心を語ることをしないけれど、語らないからこそ溢れだすものもあると感じられる演出。
25話を振り返ると、前半のフェルゼンの諦念で安穏に進むかと思えた話が、銃撃という暴力によって一変する。フランスにかかる暗雲という縦糸と、オスカルの恋心の横糸が絡み合う回でした。こういう緩急の付け方が上手いと思う
※修正入れました。ありがとうございますm(__)m