窓を開けるー3

「・・・オスカル」
青ざめた顔はぴくりとも動かない。
「オスカル・・オスカル!」
私は細い肩を掴んで揺さぶった。絹を通じて伝わる体温が徐々に抜けていく気がした。本当に火が消えてしまったのだろうか、私はこの手で愛しいものの命を絶ってしまったのだろうか。恐ろしさに全身が総毛だった。
帰ってきて欲しい、二度と手の中に戻らなくて良いから、この広い天上のどこへ羽ばたこうと、どんな道を進もうと構わないから・・貴方の命が消えることと比べたらどれほどの苦痛でもない。この同じ地上で貴方が存在してくれたら、それ以上なにも望まない・・。

頬から熱い露が落ちて、彼女の顔をぬらす。その染みが血の痕のように思えて、私は掌で拭った。そのとき彼女の表情がかすかに動いた。
「・・・・う・・」
掠れたうめき声とともに、苦しげに咳き込み胸を掴んでいる彼女。

生きている・・生きて。
私は彼女の前に崩れ落ちた。自分の犯そうとした罪の恐ろしさに身が凍る。ほんの一時でも彼女を手にかけようとした・・何の権利があって、羽ばたくものの命を取ろうというのか。自らの内部にあった暗黒に怯え、ただ嗚咽することしか出来なかった。

誰かの手が私の髪に触れ、小さく呼びかける声が聞こえた。
「ヴィクトール・・私を許してくれ。鳥篭の中でただ嵐の音を待っていることの出来ない私を・・・」
そうして彼女はまた飛び立って行くのだ。頚木に繋げようとする者達の手をすり抜けて―。

それは雨の日。生涯忘れることのできない長い日。叩きつけるような雨の音を聞くたび、蘇ってくる光景――立ちふさがる青い軍服の彼女を。

何故彼女が私を阻むのだろう?何故ここまで窮地に追いやろうとするのだろう?ここで隊を引けば、それはすなわち軍への反逆行為だ。それは死の宣告にも等しい。今まで築いてきた地位も何もかも無くし、悪くすれば命も危うくなる。それは彼女にもわかっているはずなのに、何故ここに彼女がいるんだ。私の前に。

「武器を持たない者達を撃つというのか!」
馬上で両手を広げた彼女は、荒れ狂う洪水をただひとりで止めようとしている様だった。小さな流れは今や大きなうねりとなり、ひとつの国を瓦解させようとしている。もう誰の耳にも崩壊の嵐の音は明らかだった。
そして私は崩れ落ちる側に、彼女はその向こう岸にいる。かつて愛し合った者同士が怒涛の渦に隔てられて対峙しているのだ。

私はオスカルの手に握られた抜き身の剣を見つめた。叩きつける雨に濡れ、刃の上を伝ったしずくが零れ落ちている。
「刺し貫け」と彼女は言った。私にそれができるかと・・。できるかもしれない。今の私は確かに彼女を憎んでいる。私を追い込んだ彼女を。手綱を放す、柄に手をやり、彼女と同じように剣を抜く。そしてその白い胸を・・何度も顔を埋め、唇の跡をつけた胸を刺し貫く・・。出来るのか? 今でも彼女を愛しているというのに。

愛している・・憎んでいる。
愛している私は彼女をこの胸に抱きとりたい。抱きしめて、口づけて・・。腕が折れるほど抱きしめ、二度と飛んでいかないよう、その翼を折ってしまいたい。
憎んでいる私は彼女を貫きたい。細く鍛えられた鉄の剣で。白い刃は彼女の胸がさやとなり、貫かれた胸からは血が流れ、雨の地面を朱に染めるだろう。そしてその蒼い瞳が二度と開くことはないだろう。

抱きしめるか、刺し貫くか・・。どうしたい、私はどうしたいんだ?
彼女を愛している自分と憎んでいる自分がせめぎ合い、戦っている。・・勝つのはどっちだ?

「マドモアゼル・・」
何故だか声が出た。
「剣をお納めください」
勝ったのは憎しみでも愛でも、どちらでもない。気づいただけだ。
「貴方の前で卑怯者になど、どうしてなれましょう」
私たちが愛し合った日々が遠くへ行ってしまったことを。
「・・・退却!」
私たちはあの日々からなんと遠くまで来てしまったのだろう。何故これほどまでに隔たってしまったのだろう。もはや私には、彼女を抱きしめることも殺すことも出来ない。ただ去るだけだ。彼女の前から、全霊を傾けて愛し、言葉に出来ないほど憎み、私を二つに裂くただひとりの人の前から。
「・・・ジェローデル!!」
彼女の声が木霊のように耳に届く。その声に込められた思いに気づいても、私は振り返らない。雨はますます強くなった。それは私にとっては幸いだった。自分が泣いているのかどうか、気づかずにすんだから。

 

小さな教会だった。重い扉を開けると、蝋燭の光が揺れている。自分の歩く足音が死者を冒涜するかのように甲高く響いた気がして、一歩一歩を雲の上の様にそっと出す。月ほどに遠く思われた距離をようやく祭壇の前の棺までたどり着いた。

それは再びアンリによってもたらされた。彼は、謹慎蟄居したままほとんど外出することのなかった私のいる居間の前まできて、立ち止まり、息を吸い込み、それから躊躇いがちにノックした。
「お入り」
私の声にしたがって静かに部屋に入ってきたアンリが
「・・お伝えしたいことがあります」
そう言った刹那、私には次の言葉がわかった。

私はこの時が来るのがわかっていた。ある日誰かが私に向かって伝えるだろう、彼女の死を。それは密やかにやってきて私の心臓を石に変える。それから・・よく覚えていないが多分私は彼女を捜しに出たのだ。

昼のあいだ人々の気を苛立たせていた夏の熱さは、夕方から振り出した雨に拭い取られていた。雨はときおり思い出したように降るだけだったが、流された血と憎悪を洗い流すかのようだった。私はその町を足音も立てず、アンリから聞いた教会に向かって進んで行く。
暴動の後のパリで、貴族の男がひとり虚脱したように歩いている様は、誰かに見咎められてもおかしくは無かったのだろうが、奇跡のように誰の邪魔も受けず私はその教会の扉の前に立つことが出来たのだった。

彼女は白い花に埋もれていた。頼りない蝋燭の光の下で、私が前に立つと、彼女の物言わぬ顔から、すうっと現世の苦痛が消えて行く。まるでベールを剥がしたかのように、その白い顔から生きている間の苦悩が昇華されていった。
「私を待っておられましたか・・・」

「こうして見ると、貴方は始めてであった少女の頃と変わっていない。まだあどけないといえるほどに透きとおった頬をして、でも声だけは凛として周囲に通っていた・・あの頃とまったく変わっていません」
周囲は静かだった。他にもたくさんの棺があるはずだったが、その傍らで悲しみに沈む人々の密やかな声さえ聞こえてこない。自分の耳が全ての音を消してしまっていることに気づかなかった。どのくらいそうしてただ黙って立ち尽くしていただろう、やがて・・雨音が聞こえてきた。

ぱた・・ぱた・・。雨音は途切れ途切れに聞こえていたが、やがて絶え間なく続く音に変化した。それが自分の流す涙の音だと、気づくのに時間がかかった。雨音は強さをましていき、それが次第に嗚咽へ、慟哭へと変わっていく。私は棺の前に崩れ落ちたまま、獣のように吼え、たきつける雨に打たれていた。

私は何度、貴方を失えばすむのだろう。幾度も、繰り返し繰り返し、貴方を失いつづける。これからもずっと、明け方に見る夢の中で飛び立つ羽音を聞く。きっと・・私の息が絶えるまで。

外はもう夜が明けようとしている。早朝の澄んだ大気のなかで空を仰ぐと、その青い世界の片隅を鳥がかすめていった。
貴方はこの空のどこにいる?貴方がいなくても、私の心臓は動いている、眼も見えている。そしてまた夜が明けるのだ。人が死に、国が崩壊しようとしているのに空の青さだけは変わりはしない。
いつか答えが出る日が来るのだろうか。貴方と私が隔たってしまったこと、失えないものを失ってそれでも生き続けねばならない意味。生涯の果てまで問いつづければ、いつかこの苦しみが癒える日が来るのか、私にはわからない。
空の青は徐々に深みを増してきた。一日が始まる。背後に彼女を残して、私は歩き出した。なにかの答えを見つけるために・・・・。

 

「・・アンリ、窓を開けてくれないか」
「今日はお加減がよろしいので?」
「ああ、こんな陽光の素晴らしい春の日だ。風も冷たくは無いだろう」
私とともに老いてきた忠実な従僕が、少しきしんだ音を立てる窓を開いた。その音とともに早春の風と、どこからか微かに花の香りが漂ってくる。
「本当に春の風になってまいりました。お寒くはございませんか」
「大丈夫だよ、今日は身体も軽いし、心が晴れわたるようだ」
老いて病んだ身を窓際の椅子に横たえて、吹き渡る風を感じ、芽吹く緑を見ていると、激動を生きてきた自分の半生はまるで幻のように感じる。陽光も花の香も何も変わっていない。若さと希望と愛しい者がすぐ傍にあったあの頃と・・。

私は目を閉じた。遠くから子供の笑い声が聞こえてくる。農夫の引く荷車の音も。ふと何かに呼ばれた気がして眼を開けた。窓の枠に囲まれた青い空の一角を、白い鳥がかすめて通ったところだった。

―――ああ、貴方はそこにいたのか

私はあれから永い時を生きてきた。ささやかなものを手に入れ、多くのものを失った。両手に汲んだ水の、その殆んどが空しく手からこぼれるのを見つづけた。掌に残ったほんの少しの水が、今日まで私を長らえさせた糧となって。
私が生き続けなければならなかったとしたら、それは貴方の見ることの出来なかったものを見届けるためだ。貴方が生きられなかった時間を生き、人の行いが歴史となって沈んでいくのをずっと・・・見ていた。

そうして私が人生を辿り地を這っている間、ずっと貴方はそこにいた。空を掠める白い鳥の上に、春の陽光の中に、髪を揺らし頬撫でる風の中に、遠くに聞こえる子供の笑い声の中に、花の香りの中に――幸福を感じられる全ての物の中に――貴方はいたのだ。

私は何度も貴方を失い、そして取り戻した。貴方は私のすぐ傍にいる。今はただ穏やかに陽光に包まれ、貴方を感じていられることを神に感謝しよう。永い時を経て貴方が帰ってきたことを。貴方が昔、私に囁いてくれた詩とともに、この陽の温もりを胸に抱こう。
―――恋人よ
私はどこにもおりませぬ
空にも野にも海にもいない
愛しい貴方の胸にいる――

「・・旦那様、おやすみになられましたか」
アンリの声はもう耳に届いていなかった。私は彼女に包まれたまま、春の空を昇っていった。

 

END

 

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