漆黒

その晩、彼が見ていた世界を私も見ることになる。13日の夜。

 

私は一人で歩いていた。何処を彷徨っているかは判らなかった。多分、街路だったと思う。夜の暗さに気づかず歩いていて、何かの変化を感じ立ち止まった。私の頬は濡れている。低い嗚咽が喉から洩れている。私は立っている、ただ。

自分の姿が見えない。湿った手を頬に当てたが、その手も見えない。指が顎にあたり濡れている感覚もあるのに、見えない。俯いても足先が暗い、いや。

周囲の、全てのものが消えている。暗闇は夜のせいではなかった。私の眼球が潰れてしまったのだ。私は驚きもなくその事実を反芻していた。頬を流れる水滴を掬うように、左の指を顎から首元へ降ろしていくと、動脈の上に微かな断層があった。彼の付けた痕。その痕跡を指で押してみた。規則正しく脈動している。私は耳の内側に感じる鼓動に聞き入った。潰れた眼はもとより瞼の裏の残像すら無く、ただ感覚と温度と音だけがある。流れる涙のぬるさ、胸の奥の血の味、肺が上下する時の枯れた風のような音。指先を口に含むと、僅かに錆びた匂いがする。

これが彼の世界だった。目に見えるもの以外、全て存在している。愛も命も。ただ、見えないだけ。触れることも味わうこともできるけれど、形が判らない。そうか、かれは此処にいたのだ。見えない世界では、愛も石の欄干も同じ。顎から落ちて石畳に落ちる涙も、セーヌの川の水も変わりはない。形あるものも無いものも等しい。ただ己が感じて存在を信じていれば――全ては在る。

涙で潰れた眼を抱えたまま、私は再び歩き出した。やがて朝が来るとき、私は何処にいるのだろう。朝日が昇ったことに気づくだろうか。曙光が闇を押しのけ、新しい一日が始まる時に。私は彼と、彼に繋がる世界を、感じることが出来るだろうか。

 

私には判らない。ただ進むだけだ。この道を、ひとりで。