残月

--懐かしい・・オスカル。わたくしの大切な友達。貴方のいる場所からわたくしは見えないのでしょうね、そうであってほしい。でも、もうすぐ・・・。

 

私はこの記録を、二重に鍵のかかる引き出しの奥にしまっておく。夫の古いノートや切り抜き、私の献立の書きつけ、市場からの請求書、そういった物に紛れさせ、一見しただけでは判らない二重底。古い小卓のこの仕掛けに気づいたのは、かの人の思い出話からだった。これ以上相応しい隠し場所があるだろうか。

夫が留守の夜、私は寝る間も惜しんでその日のことを記録する。アパルトマンの扉はきしんで音を立てるから、夫が階段を上がってくる前にノートを隠し、今までスープを暖めていたような顔を作る。私は忠実で愛情深い妻だ、だからこれは裏切りではない。私はただ、書き留めた事実を、誰か未来の者に委ねたいのだ。私達が死んだ後、数十年、数百年、私達の行いを誰かが断罪してくれることを、願う。

「・・懐かしいのですか」
「ええ、心が休まります」
「でもあの人は」
「私を裏切ったと?」
「そうとも言えるでしょう」
沈黙。
「あなたは誰かを裏切ったことはないの?」
「・・・あります」
「誰を?」
「姉、でした」
「もう、いないのね」
「はい・・・」
再びの沈黙。
「皆、いなくなってしまう。私が裏切った人、私を裏切った人。残っているのは私を断罪する人達だけ」
「私もあなたを断罪する者だと?」
「少なくとも聴聞僧ではないわね」
女性は笑った。明るい花が咲いたようだ。黄金で彩られた宮殿の中で、この人が歩くとそこだけ赤と緑の花園だった。

「歌が聞こえるわ、子どもの声ね。なんと言っているかまでは聞き取れないけれど」
「この塔の壁は厚いですから」
塔の中と外を隔てる暗い壁が、この時だけは救いになる。
「彼女も、子ども達を慈しんでくれた。ジョゼフはあの人と馬に乗ってとても、とても楽しそうに・・・」
女性は顔を上げて、外の音に耳を澄ませていた。お願い、聞かないで。
「いつ、あの人と出会ったのですか」
「初めて会ったのは、私がこの国に輿入れしてきた日だったの。馬車の前を白馬に乗って進む金色の少年、そう見えたのよ」
「私も、初めてお会いしたときは男性だと思いました」
「彼女はあの生き方で、辛くなかったのかしら」
「このように生きてきたことに、後悔はない。そう聞きました・・何処でだったのか。その時、横顔が傾く陽に照らされて紅く映えていたことを覚えています」
「ああ、目に浮かぶようだわ。彼女のあの、横顔。わたくしも時々、声をかけられなかった。そんな時の彼女はとても・・・とても、脆いように見えた」
「ええ・・」
「不思議ね、あれほど強い人だったのに。自分の手で道を開いて、信念に従う人だった」
「でも、その信念は」
「私が信じる道とは違った、それだけのこと。それが私を追い詰めることになったと・・しても」
信頼、信念。私達の掲げる旗にそれはあるだろうか、あると信じたい。そうでなければ、これほど血が流れた意味がない。子どもに、母の死を願う歌を歌わせるほどの残虐が、無意味だとしたら。

「私の夫は力強い人だった、でも繊細で。錠前の精巧な仕掛けを大きな手で作っていく様子は、魔法のようだったのよ。机の引き出しにも小さな・・」
そこではっとしたように口を噤んだ。私との会話は心安いながら強固な壁はある。この人は私の夫がどのような立場なのか知っているはずだ。
「彼女も時折、工房に顔を出すことがあったわ。見事な細工だと、彼女はいつも世辞ではなく心からの賛辞を口にしてくれた。いつも、どんな時も嘘がない人だった」
「ええ、そうでした」
「それがあの宮殿でどれほどの価値だったか・・失ってから判る」
その女性は高い小さな窓を見上げた。切り取られた空から微かに鳥の声が聴こえる。
「失って気づくものは、余りに多くて・・・でも掌から零れた砂はもう戻らない」
秋の短い陽が沈むと、空気がひんやりとしてくる。石の床は敷物ひとつない。
「上掛けを増やしましたし、着替えは暖めておきました。もうお休みになってください」
「ありがとう。明日も・・早いのだからもう休みましょう」
明日もまた、裁判という名の弾劾が待っている。判決は開かれる前から決まっている裁判が。

「私は、罪のない人間だとは言わない。それでも子ども達から引き離され、死に値するほどの罪業があると、あの人達は本当に信じているのかしら」
「まだ・・全て決まったわけではありません、奥様」
「どれほどの罪を犯したとしても・・希望を捨て去ることは出来ない。私はもう一度・・もう一度、どうしても」
その日の裁判は、母としてあまりに酷なものであったと、夫から聞いた。

 

もう、この記録はやめてしまおうか。書き記すほどに、私達の罪が暴かれる。夜遅く、暇を告げようとして扉の前に立った私は、籠った泣き声を耳にした。コルセットの裏側に潜ませた一束の髪の毛。そこに何度も口づけし、名前を呼んでいる。親から引き離された子ども達はまだ幼い、娘は私が母と死に分かれた年と変わらない。そして息子は・・あの哀れな子ども。生まれついたというだけで、幼い少年が何の罪を犯したというのだろう。
きっとまもなく、彼らは天涯孤独となる。庇護してくれる親はいないのだ。私達が彼らから奪う。私達にその権利が?私達は神になったのだろうか。

 

その日、私は看守から数枚の紙とペンを渡され、女性が使い終わったらすぐ回収するようにと言われた。最後の手紙を許されたのは、慈悲なのか。暫くは扉の隙間から灯りが漏れ、ペンを走らせる音が続いた。私が入っていくと、封をした手紙はテーブルの上にあり、女性はやつれながらも手を揃えて硬い椅子に座っている。
「お願いがあるの。今日は、ひとりにしておいてくださいな。私は生まれた時から、本当にひとりになったことはない。でも今日だけは・・」
「・・わかりました、奥様」
敵国と通じた王妃の悲嘆を見ようと、物見高い誰かが訪ねてくるかもしれない。王侯貴族が狩りの狐を追い立てるように、絶望の上にも絶望を与え続ける。そうやって人は人を狩るのだと、私は知った。私はその夜、扉の前に立ち尽くした。死を待つだけの女性に、せめてもの一時の平穏を。

朝が近づき、私は扉に穿たれた小さな窓から様子をうかがった。女性は寝台に倒れ込むように眠っている。音を立てないように部屋に入り、半身しか覆っていなかった上掛けを直した。その時ふと、寝台の隙間に何枚かの薄い紙片が挟まっていることに気づいた。
胸の奥がざわめく。塔に収監されてから、女性の身の回りの物は徹底して管理されていた。私や好意的な守衛達が持ち込む、心慰める為の些少の物は見逃されていたが。自傷に繋がりそうな鋭利な物は言うに及ばず、紙やインクでさえ、使える物は限られる。目を盗んで外との連絡をさせないようにする為だ。
私は紙片をそのままにし、外へ出た。家に帰る間も胸の動悸は治まらなかった。数人の看守、下働きの女達、誰かが小さな紙片を持ち出すことは可能だ。裁判では外国との繋がりを最後まで否定していたけれど、生きて子どもに会うためなら、きっとどんな手段でも・・どんな。私は頭を振った、残された時間はもう少ない。台所にある干し肉と野菜を幾つか集めていると夫が帰宅した。

夫は欠かさず裁判を傍聴していた。それが新聞記者として、一市民としての義務だと言って。しかし日毎に彼の目の隈は濃くなり、書くべき記事すら手をつけていなかった。彼は黙ったままテーブルに座り、ペンを取った。しかし右手はぶるぶると震えたまま、紙とインクをなぎ払った。床に黒い染みが広がる。

「あの人・・あの人は死に値する罪だったの?」
背中に問う私に夫は答えない。
「私には、そうは思えない。あの人は、ごく普通の愛情深い妻で母親なの。子どもの髪を胸に抱いて、毎晩のように泣いていた」
「・・・君は!」
夫は顔を上げ、椅子から飛び上がった。
「君には判らないのか?凡庸だからだ!普通の女だったからこそ、罪を犯したんだ。確かに直接手を下したことはないだろう、だが国民の窮状を知らないでいることが罪だと気づかなかった。国王と王妃は国民の信頼にこたえる義務があった、それを踏みにじり逃亡した。何一つ責任を果たすことなく。それが罪ではないのか!!彼らは我らの犠牲の上に君臨していたことなど何一つ・・・気づいては」
夫は椅子に崩れ落ちた。
「・・・・罪の意識があるならまだ救われる。気づいて罪の重さを背負っているなら。知らなかった、私は何も気づかずにいた。そう訴えられるたびに、俺は喉が焼かれるような気がした」

夫は私にもあの女性のことで問い質したかっただろう。革命委員会から要請を受けたこともあったはずだ。しかし、夫は何も言わなかった。私を責めず追い詰めなかった。
「あなた・・ごめんなさい」
肩に置いた手は振り払われはしなかった。

 

罪――私達が生まれついた時から背負っているもの。楽園を逐われた時、最初の女性はその重さを知っていただろうか。

 

私はスープを作った。秋の朝は寒い。暖かく、身体に優しいスープを。
「奥様・・」
その人は目覚めていた。涙の跡は痛々しく頬に残っていたが、もう流れてはいなかった。
「スープをどうか・・・ひとくちでも召し上がってください」
「ありがとう、持ってきてくださいな」
その人が静かにスプーンを置いた時、階下に足音が近づいてきた。女性は落ち着いたまま、片づけられた寝台の枕の横から白い物を取り出した。

「ロザリーさん」
その人の手には薔薇。
「これに、色を付けてください。オスカルの好きだった色を」
あの隠されていた紙片。小さく繊細で見事な白薔薇になっている。
「―――っ、王妃様!」
私が叫んだ言葉に一瞬執行人が咎めるように顔を上げたが、その人はもう振り返らなかった。足音が遠ざかっていく。私は床に散らばった白髪を一房拾い・・・胸に仕舞った。

 

―――昨夜の月は美しかった。私はもう二度とあの光を見ることはないけれど、最後に静かに祝福されたことを神に感謝しよう。

 

私の記録はここで終わる。髪を挟んだこのノートは、引き出しの奥に小さな鍵をかけ封印する。誰とも知らない貴方、これを読む未来の貴方、貴方に問いたい。

 

―――今、御許にまいります。

 

 

あの人の罪、白薔薇の人の罪、私の罪は何だったのだろう、と。

 

 

end