遠い約束

波打ち際 足が海に攫われていく あの時間の中でお前といたい

 

故郷の村にいた頃、海というものは存在しなかった。眠くなる日曜の礼拝で、時折神父の説教の中に言葉が出るだけ。その小さな村から離れ、数年も経っただろうか。
見渡す限りの青い水。膚にまとわりつく潮風。何よりの驚きは波音と、陸との境にあるその際だった。其処に立っていると、踵は知らぬ間に沈んでいき、何処かに連れていかれるような感覚に陥る。
五月の海、見渡すと遥か沖は岸辺近くより碧く、彼女の瞳のようだ。夜空の星にも、地上にも同じ青があるのは不思議だと思う。呆然として海を見つめている俺の顔を、彼女が覗きこむ。

「あの向こう」
彼女の細い白い指が、俺が見ていた沖より先を指し示した。
「西へと進めば、新しい国があるんだ。知っているか」
「ううん、知らない」
「海を渡れば、お前や私の見たことも無い土地がある。海は何処までも続いている、船に乗って何日も何か月も航海すれば、知らない・・国へ」
陽はもうすぐ水平線に沈もうとしていた。傾いた光に照らされ輝いていた彼女の顔がふと曇った。
「私も・・・其処へ行こうか」
呟くような言葉は波音に紛れたが、俺の耳にかろうじて届いた。次第に色を濃くする陽光に、彼方を見つめる彼女の表情が揺らめく。
「遠くへ行きたいの?オスカル」
彼女は答えなかった。

 

この海沿いの別荘に来る数週間前、彼女の長姉が結婚した。集まった人々は、口々に祝福を送りながら、揃った姉妹の美しさ愛らしさも褒めそやした。ただその視線は、彼女の上に来ると当惑したものに変わった。末娘だけがドレスではなく、白い絹地に刺繍の施された礼装を着ていた。

その数日後、彼女は長い間奥様の部屋にいた。午後にようやく出てくると、そのまま厩舎に向かい、与えられた白馬の前で佇んでいた。聡い馬は彼女に鼻先を預け、彼女はその毛を撫でながら俯いたままだ。
「アンドレ・・」
いつも凛として良く通る声が、か細く低い。
「僕は・・・女の子なんだ」
「うん・・」
「知ってた?」
「・・・・うん」
勿論、最初に祖母から聞いていた。でも出会った時、彼女は自身を男だと思っていて、お嬢様と呼ぶ祖母を訝しんでいた。剣の稽古をするのも馬を与えられるのも、己が世継ぎである為で、だから姉や母のようにドレスは着ない。そう無邪気に信じていた幼気な子にも、違和感は察せられた。来客の奇妙な言葉じり、母の物悲しい視線、それは何故だろう。言葉にならない疑問は次第に形になっていった。
「僕が女の子なら・・父上の跡は継げないかもしれない。そんなの、そんなこと・・」
俺は思わず彼女の腕を引っ張った。馬が驚いて首を上げる。
「遠乗りに行こう」
驚くオスカルに断る隙を与えないように、俺は鞍を準備しながら話し続けた。森の向こうのアーモンドの花が満開だ、野苺も沢山生ってる、大丈夫、今ならだれにも見つからない。オスカルは暫く俺と、優しく濡れた白馬の眼を見比べていたが、意を決したように鞍に跨った。

後ろにした館が小さくなるまで、馬を走らせた。本当はまだ二人で遠出をしたことはなかった、禁じられていた。それでも土を蹴る蹄の音、揺れて後ろへ流れて行く景色、汗をかく馬の熱と身体を吹き抜ける風に、彼女の顔がほころぶ。
もっと、もっと早く。アンドレ、競争しよう。私のほうがきっと早い。頬を紅潮させ、初夏の光の中で疾走する彼女。後を追いかけながら、俺は奇妙に胸が苦しかった。彼女が初めて“私”と言ったことにも、気づいた。そして当然アーモンドの樹の下には、彼女が先に着いた。

俺は祖母に彼女は奥様に叱責されたが、それからも時々は二人で遠乗りに出た。物言わず身体を預けられる馬に跨り、様々な責任、頚木から一時でも解放される。駆ける馬の美しさと風の心地よさは、何よりも心浮き立たせた。

自身が女であると自覚してからも、彼女の勤勉さは変わらなかった。いや、ますます励むようになった。勉学でも剣でも彼女は飲み込みが早く、しばしば教師を急かすように進めていく。旦那様に“お前がジャルジェ家の世継ぎであることに変わりはない”そう言われてから、もっと。俺はその彼女を、いつも勝負が決まっている遠乗りの競争に誘うことしかできなかった。

 

「僕も一緒に行くよ」
傾いた金色の光に照らされた横顔が、こちらを振り向く。
「オスカルと一緒なら、何処へだって行く。二人で船に乗ろう、大丈夫、見つからないさ」
「ははっ」
彼女が笑った、少し泣いているような顔で。
「遠乗りみたいにはいかないぞ。見つかったら、ばあやが真っ赤になって怒る」
「それは・・ちょっと怖いかな」
「そうなったら、私も一緒に叱られてやるさ」
「駄目だよ!後でおばあちゃんから百倍怒られる」
本気で怖がっている俺を見て、オスカルは笑った。もう泣いている顔ではなかった。

いつの間にか、陽は水平線を赤く染め、波打ち際の俺たちの足元は半分砂に埋まっている。戻ろう、そう言って彼女は踵を返し、小さな足跡をつけながら砂浜を歩いていく。俺は後ろから歩きながら、そのか細いばかりの足跡を見ていた。ふと立ち止まった彼女に気づき顔を上げると、肩までの金髪を揺らしながら、紺碧に沈んでいく水平線を見ている。

「いつか・・・お前と行けたらいいな。海の向こうに」
「きっと行こう、行けるよ」
それは、果たされるかわからない遠い約束。全ての頚木から放たれ、二人で遠くへ行くことはあるのだろうか。

二人で、遠い未来へ。

 

END