日の名残り 

もう日が暮れる。彼女はまだ帰らない。アンドレは右にある窓の外を、見るともなく見ていた。屋敷の仕事も終わり、食事をした後はオスカルの部屋にワインを持っていく。何時の頃からか、それは彼の役目だった。

以前、注いだワインのグラスを彼が払い落としたことがあった。グラスは割れ、暗褐色の染みが床に広がった。それからも、ワインを運ぶ役目は変わらなかった。あの日の翌日でさえ、彼女は彼にワインを頼んだ。

彼はワインを払い落とした後、館を離れようとしていた。愛する者を殺そうとした、己の深い罪業に慄いた。此処にいるべきではない、光り輝くものを暗闇で覆ってはならない。その彼に、ワインを持ってきてくれと伝えたのは彼女だった。
部屋を訪れた彼は、ことさらに何気ない風にワインを注ぐ。その間、二人とも何も言わない。注がれたグラスを手に、彼女はひと言「ありがとう」と言い、躊躇なく口元に運んだ。怖れもせず震えもせず、馥郁とした液体を飲みこんだ。

 

彼女の帰りを待ちながら、彼は懐から小さな球体を取り出す。本来なら壊れやすい細工は持ち歩かないほうがいい。しかし彼は古道具屋の奧でこれを見つけ買い求めた時も、そのまま手に持って歩いた。これは己の錨だ。暗い衝動を沸き上がらせないため。何も言わず彼を許し傍におき、守られることを受け入れている彼女の信頼に応えるための。

冷たい石は掌で暖まっていく。嵌め込まれたサファイアの深い青。瞳孔に当たる部分は、一段と深い色だった。ただ、青一色ではない。所々細い色が差し込まれている。傾いていく陽にかざすと、緑や紫が薄く見える。そして奥には、細く黒い石の破片が嵌め込まれている。海の青は潜っていくと黒に近くなると聞いた。この細工を作った者も、それを知っていたのだろうか。最奥の黒を反射して、透明な青は深さを増していく。
勿論、生きて動き、強い光を湛えて見据える、あの瞳と同じではない。あの色は彼女自身の魂なのだ。それが一日として同じ色合いでないことは、彼だけが知っている。時に臥せられ、時に涙に揺れる。怒りに燃えることもあれば、限りない慈愛を現わすこともある。彼の罪を暗い衝動を飲み込んで赦す、あの深い青。

気づけば日が暮れていた。沈んだ日の名残が、西の空の際にだけ薄く広がっている。彼は青い瞳を掌に包んだまま、窓ガラスに顔を預けていた。日中の熱が冷めていき、ガラスのひんやりとした冷たさが頬に伝わる。
彼女は何処へ行ったのだろう、そして・・何処へ行くのだろう。日々膚で感じる民衆の憎悪と政権の混乱。もう嵐はすぐそこまで来ている。あの強く清廉な魂は、どう決断するのだろうか。
「それでも・・俺は」
彼女のそばにいる。どこまでも見届ける。たとえ全ての光を失っても、見つめ続けなくてはならない。それは業でもあり、しかし確かに愛の形でもあるのだ。

 

名残の光が消えた頃、彼女が帰ってきた。ワインを手に部屋に入る。窓辺に立つ彼女が振り返り、彼に歩み寄る。胸元で閉じていた両の掌をそっと開く。手の中に白い珠があった。彼も持っていた宝を取り出す。青い瞳と黒い眼。青空と夜空。浅瀬と深海。水と石。星と新月。昼と夜。太陽と月。光と闇。相対しながら溶け合い、二つでありながら一つの円。決して離れることはない、二つの瞳。

 

彼らは石の瞳を挟んで抱き合った。唇が近づき、ため息のように儚く、しかし強い言葉がもれた。

 

「愛している」
「愛しているよ」

 

END

 

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