巨いなる人ー番外

父は大きな人だった。あれは幾つの時だろう。父に手を引かれていたのが、ふっと身体が浮き、気づくと世界が広がっていた。いつも足元にあった下草は見えなくなり、夕陽に輝く丘が見渡せる。世界がどこまでもどこまでも遠く広い。歓声を上げるでもなく、怯えるでもなく、ただ赤い陽が照らしだす一面の野に驚いていた、父の肩の上。

そのような記憶は多くない。ただ母が折々に語る思い出が、自分のもののように上書きされていった。並外れた体躯。手が大きく暖かかったこと。
「お前はきっと、お父さんそっくりになるわね」
そう話す時、母の目が何故か悲しげだった。それを見届けられないであろうことを予感していたのかもしれない。

背の高い、大きな手の優しい人。

母を亡くし館に引き取られた時、挨拶した当主も巨躯だった。微かに覚えている父もこのように背が高かったのか、ふとそんなことを考えた。その後は感慨にふける間もなかったけれど。

それから、慣れない館の仕事に主人の剣の相手も加わった。俺のひとつ年下でまだ幼いばかりの主人は、細い体から想像できないほど手強い相手だった。
「いつかきっと、父上のような強く立派な軍人になる」
そう信じて疑わない幼い主人に尊敬と、一抹の危惧を抱いた。

「優しくて、とても強い人だった。治らない病に罹ってさえ、自分の痛みより残される私たちのことを・・思って」
母の語っていた強さと、幼い主人の目指す強さは同じだろうか。
「父上のように強くなり、敵と闘い国を守る。その為に努力するんだ」
そう言って、歴史から剣術まで主人は俺に教える。敵の弱点は足元・・でも、敵とは誰だろう。

「お前は・・どうして!!」
主人が激昂した。どうしてもっと、昨日より今日、今日より明日、強くなろうと思わない?!半ば涙を浮かべて詰め寄ってくる。彼女はー幼く強い主人は少女だったー俺が彼女と同じように、強くなることを願わないのが不思議なのだ。しかし俺と彼女では強さの意味が違う。俺にとって強くなる理由は戦う為ではなかった。

出会った頃、ほとんど体格は変わらなかった。いつの間にか、俺の方が背が高くなっていた。手も大きくなり、重い剣も軽々と扱える。
――なのになぜ、どうして?
どうして私はお前より腕が細いんだろう。どうしてお前の振り下ろす剣は私より重いんだろう。どうして、どうしてーー私は男でないんだ。私は父のようになれない、私はー世継ぎとしてー父に認められない。どうして。

誰よりも近くで彼女を見ていたからわかる。細い指が曲がるほど、剣を振り続けたあの日々が。連綿と続いた武門の栄誉を継ぐものとして鍛錬してきた時間が、報われることはないのだろうか。彼女の焦燥と怒り。

夜半、眠りにつく前に彼女の部屋の窓を見下ろす。まだ灯がついている。夜の窓に俺自身の影が映る。
――お前はお父さんそっくりに
――自分の痛みより私たちのことを
母の言葉が蘇る。

翌朝、泣き腫らしたように目が赤い彼女に提案した。体の軽さと敏捷さで、相手の懐に入るように刺す。力で剣を振り下ろさず、回転の勢いを活かす。日々、確実に彼女は変わっていった。俺の怪我は増えたけれど、彼女の会心の笑みには代え難かった。

 

それから長い年月が経った。しかし彼女は変わらず、強かった。脆さも逡巡も悔恨も持ちあわせながら、彼女自身が必死に育んできた、強い信念と魂。俺が心から守りたかったもの、強くなりたかった理由。
二人で新たな世界へ踏み出すその朝にふと、曙光の差しはじめた窓を見る。そこに映っているのは、もう記憶の朧な父だった。

 

――黒髪で背の高い、大いなる人

 

 

 

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