曙光

夜の帳が下りようとしていた。いつまでも茫洋とした明るさを残していた夏の陽の名残も今は途絶えている。騒乱の町の闇の中に動くものは少ない。闇の中に蠢くものは、すなわち鬼しかいない。身を守りたければこの夜の中に出て行くものはいなかった。
その街路を女がひとり歩いていた。軽い足取りから若い女だと知れる。この町の大多数のものがそうであるように、女も貧しい粗末な身なりをしていた。 女の足は急いでいる。闇の隅で目を光らせているものたちも気にとめない様子で。 広場の一角にある教会の前で足が止まった。女はそこで立ち止まって、弾む息を整えた。小走りに走ってきて、始めて自分の息が荒くなっていることに気づき、そのままでは中に入れないと思っているようだった。深い息をひとつつくと、黒く重い扉を開く。

その教会の中、いつもは長い木の椅子が並べられている空間に、今は棺が並んでいた。ほんの少しの蝋燭の明かりの中で、棺の傍らにいる人々の、溜息に似た低い声だけが響いている。彼女は急く気持をおさえながら、ゆっくりと棺の間を縫って歩いた。教会の奥、祭壇の前に目指す場所がある。
彼女はその少し前まできて、はっとして立ち竦んだ。祭壇の前、棺の傍らに誰かが跪いている。夜目にもそれとわかる、荒い織りの黒いコートを着て、その下に褪せた色のドレスの裾が見えた。
黒衣の女性は、彼女に気づかず、俯いて祈っているようだった。
女は跪いた黒衣の婦人に近づいていいものか迷った。あの棺の主に縁のあるものだとしたら、誰なのだろう?そう考え、躊躇していると、婦人が気配を感じて振り返った。薄い色の金髪に縁取られた白い顔を認めて、女は低く驚きの声をあげた。
「奥様・・」
「・・・ああ、ロザリー。あなただったの」

「奥様、どうして・・何故ここが」
そうロザリーは言葉を続けてから思い至った。夫君である将軍の耳に、今日のパリでの出来事は逐一届いているはずだ。曰く、元近衛連隊長の衛兵隊長が民衆側に寝返り、バスティーユを攻撃した。指揮をとっていた隊長は死亡。バスティーユ陥落後、他の死者と共に教会に安置されている。そのくらいの情報は当然入っているだろう。

しかし、見渡してもここにいるのは、その謀反人の母たる人、ひとりのようだった。その人も、下働きの女中にでも借りたのだろうか、貴族の夫人には見えない、粗末な身なりをして。ひっそりと闇に溶け込むように、物言わぬ娘の傍らに佇んでいた。
「ロザリー、あなたがオスカルをここへ連れてきてくださったのね」
ジャルジェ夫人はロザリーの手に握られた一塊の花束に目を落として囁くように言った。

戦死者は多かった。棺があるだけでもましだった。死者を弔うべく集まった人々は、彼女を真っ先に棺に入れた。彼女無くして今日の勝利が無かったことをしっていたので。
簡素な棺の中で眠る人に、せめて少しでも慰めになるようにと、ロザリーは夜のパリへ出て、花を捜してきた。最後の時、どれほどの苦痛があったのかは計り知れないが、横たわる人は今は安らかな顔をしていた。せめてその人に手向けられるものを・・ロザリーはそう考え、夜のパリへ花を探しに出ていた。

「穏やかな顔をしているわ・・もう、どんな苦痛も無いのだから」
花を入れるロザリーに手を貸しながら、夫人は低い声で呟く。その頬に涙の後は無くても、どれほどの悲嘆が心を苛んでいるか、ロザリーには良くわかっていた。
「・・・アンドレも側にいるのね。今までと変わりな・・」
言葉は終りまで続かなかった。俯いてしまった夫人の、顔の表情は見えないが、しっかりと手で押えられた口元からは、押えきれない嗚咽が洩れている。
ロザリーは思わず夫人の肩を抱きしめ、棺の中のオスカルを見つめた。物言わぬその顔に、枯れてもおかしくは無いと思った涙がまた頬を伝っていった。

「レニエは来ません。・・来れないのです。あの人はまだ王家の軍の将軍ですから」
教会の隅によせられた木の椅子にかけて、二人の女性は低い声で話していた。
「ただ、私はどうしても、来なければならなかった。この目であの子を見るまでは、信じられない気がして・・分っていたはずなのに。パリに出動すると聞いた時から・・」
そう言うと、ジャルジェ夫人はおもむろに胸元から小さなハンカチを取り出した。
「ずっと、これを刺していたのよ。出動した日から・・何かせずにはいられなくて」
その白い絹のハンカチには、騎馬の勇者が刺繍してあった。古風ないでたちをしたその勇者は、白馬の上で、弓を番えていた。その姿の周囲に、絡まるようにしてとりどりの花と蔓がうねっている。

「あの子には・・祝福の言葉ひとつ、花嫁衣裳ひとつすら持たせてあげられなかったから・・」
子を亡くした母は立ち上がると、二つ並んだ棺に近づいた。娘の傍らに寄り添った棺には、ひとりの男の亡骸。
「声をかければよかった・・なにか、たった一言。出動する前に見送った時。私は駆け寄って、あの子を抱きしめて、どんなにお前を愛しているか、誇りに思っているか、言おうとして・・。でも、言ってしまえば、この子が二度と戻らない気がして・・何も言わずに送り出してしまった」
そう話しながら、夫人は娘の頬にかかった金髪をきれいになおしていく。血糊の跡はロザリーが拭き取っていた。白い顔にも胸で組まれた細い指にもなんの傷も無いように見え、眠っているとしか思えない。ただ、やはりその眼は二度と開くことがなく、神の手のあとがはっきりと見てとれた。

「花嫁衣裳には・・ならないけれど」
白いハンカチが組んだ指の上に置かれ、それをまた覆い隠すように、花を上にかぶせた。
「ご存知だったのですか・・アンドレとオスカル様のことを」
「ええ、彼が、アンドレがいたから私はオスカルを見送ることができました。娘ひとりなら、何があっても引き止めていたかもしれない。子供というものは、いつかは放たれた矢の様に離れていくものです。この子は・・・本当に一番遠くまで飛んでいってしまったけれど。一人ではなかったから・・」
「お連れになりますか?二人を・・・」
問われて夫人はロザリーの眼を見つめ、視線を下に落とすとゆっくりかぶりを振った。
「それは・・できません。ロザリー」
搾り出すように抑揚のない声だった。ロザリーは改めて、花に埋もれた絹のハンカチを思い起こした。それはかつてオスカルが属していた世界の、最後の名残といえる。それを人目につかないよう、花に隠した夫人の心のうちが察せられた。
「オスカルはわたし達の家から旅立っていきました。連れ戻すことはできません。この子が選んだ道なのだから・・」

ロザリーは、夫であるベルナールに、事の次第をジャルジェ家に伝えなくてもいいだろうかと話した時、彼が首を振ったことを思い出した。彼も、夫人と同じように考えていたに違いない。オスカルは民衆の側に立ち、為に死んだ。だからこそ・・・。
「主人の、ベルナールの縁のある土地に、お連れします。海を臨む静かな丘に、二人一緒に眠れるように」
「・・・ありがとう」
ロザリーはあらためて、棺に目を落としている夫人の、蝋燭の薄明かりに照らされた横顔を見つめた。この人はこんなにオスカルに似ていただろうか・・母娘なのだから当たり前だが、屋敷にいるときは、夫人の柔和な面差しに比べて、オスカルの凛とした雰囲気がその相似を気づかせなかった。
だが、今こうやって、娘の亡骸を前にしても背を伸ばして立ち、子の進んだ道を阻もうとしない横顔が、オスカルが誰からあの潔さを受け継いだのかを物語っていた。

夏の短い夜が明けようとしていた。うっすらと東の空に曙光が射してきている。
「元気でね・・ロザリー。もうお会いすることもないかもしれないけれど。あなたは身体を大事にしてください。生まれてくる子供のためにも」
「何故お分りになったのですか」
ロザリーは驚愕した。これはまだ誰にも、夫にすら告げていないことだったから。
「顔立ちが違うわ。わたしは六人の娘の母ですからね」
夫人の柔らかな視線を受けて、ロザリーは迷っていた心のうちを見抜かれた気がした。
「奥様・・・わたしは」
「・・どうしたの?」
どうしよう、言ってしまおうか・・。この人ならきっと答えを知っているだろう、そう思えてロザリーは言葉を続けた。
「わたしは、迷っているんです。子供は・・この子は生まれてきていいのでしょうか」
ロザリーは自分の腹部に視線を落とした。ジャルジェ夫人の目にもしも非難の影が見えたら耐えられない気がして。しかし一度開いた扉からは言葉が止まることなく流れ出てくる。
「・・これからこの国は揺れ動くでしょう。わたし達のような民衆の生活が今より良くなるのか、それとももっと苦しくなるのか・・誰もわかりません。街には軍があふれています。その銃口がこの先子供に向けられないといえるでしょうか。こんな時代に・・・子供を生んで、幸せにしてあげられるのか。不安で仕方ないんです・・・生まれてきて、この子は幸福なんでしょうか」
息もつかずに一気に話してしまってから、言葉が続かなくなった。眼はあげられなかった。まるで判決を待つ囚人の様に、俯いて身体を硬くしたまま立ち竦んでいた。
すると柔らかな手が、そっと頭上に置かれたのを感じた。その感覚はずっと昔、幼かった頃を思い起こさせた。顔をあげると、変わらず柔和な光を持った夫人の瞳がロザリーを見つめていた。

「・・・ロザリー。それは誰にもわからないことなのよ」
ロザリーはその言葉の真意を測りかねた。
「生まれてきた子供が幸福になるかどうかは、誰にもわからない。ご存知なのは神だけです。でも・・。ただひとつわたしが知っているのは、子供は子供自身のものであるということだけ。子供は親を通ってくるけど、親のものではありません。子供たちは明日の家からやって来て、わたし達はその家を訪れることはできません。わたし達にできるのは・・」
いつしか夜の闇にかわり、太陽が空を薄紫に染めていた。夏の一日が明けていこうとしていた。
「子供という矢を番えて、遠くへ放つことだけです」
夫人の視線は、まだ曙光の届かない教会の奥を見つめている。虚空の彼方まで飛び立っていった娘を。

「ありがとうございます、奥様。どうかお元気で・・」
「オーボワァ・・ロザリー」
オスカルは最後に「アディュ」と言った・・ように思う。生きつづけるものは、「また会いましょう」と言う、「さよなら」ではなくて。そして、生まれる子が男でも女でも、その時は祝福とともに名前を授けよう。強く美しい名前を。
ロザリーはそう考えながら、朱の陽の中を遠ざかる夫人の後姿を見送った。

END