ろうたけて・・

山脈から降りてきた冷たい水と灰によって、新雪のように穢れなく白く晒された生地の袖口から、さらに白く細い手首が覗いている。弓の弦に似た手の甲の曲線。冬の窓に落ちる細い氷柱のような指先へ。爪だけがほんのりと春先の蕾を思わせる。

ドレスを纏わない彼女の腕を見ることはできない。だからこそ、偶さかに目に触れるそれは見る者を幻惑させた。氷を削った彼女の横顔とともに、秘められた腕のろうたけた白さを思い起こさせた。だがそのさざ波を彼女が知ることはない。
何千の何万の貴婦人たちが漂白されたレースの袖から、黒いフェルトのつけぼくろの下から、その誘惑する腕の仕草を扇の陰に隠しても。暴かれることが前提となった秘密などに魅了されはしない。

 

剣を持つ手が思いのほか細く頼りないことに気づいたのが最初だった。あのような指で、男ですら重さに顔をゆがめる剣を振るうことが出来るのだろうか。そんな僅かに侮蔑交じりの危惧は、彼女が剣を振りかぶった瞬間に霧散した。剣の自重を自在に移すことで、剣先の動きはしなやかに早い。全身がしなる弦となって、相手の剣を払い、その放物線のままに喉元へ突きつける。舞うような美しさの中に、どれほどの努力があっただろうか。同じく剣を振るう者として、私は彼女の白い手の中に並々ならぬ力を見た。それが彼女を見つめ続けることになる端緒だった。何年もの間、その抜けるように白く手の表情を追った。ただ、愛しさをつのらせて。

 

細い手首に似合わず、低い声に力があった。喉元に突き付けられた剣が脅しではないことも判った。薔薇色の頬をした仮面の貴婦人にそれ以上近づけば寸暇なく刺す、と表情が言っている。そんな出会いだった。迂闊に触れれば、こちらの血が流れるのだろうと思わせる峻烈さがあった。だからこそ女性だと聞いた時、氷で背中を刺されたような感覚を覚えたのだ。女であるからこそ研ぎ澄まされていたのかという解が腑に落ちた。それと知れれば容易にわかるものを、私は盲同然だった。だが知るほどに近づくほどに性差の境界が無くなり、男であるとも女であるようにも見える。軍服の襟からのぞく、不釣り合いに白くろうたけた頬の線が、彼女の”何者でもなくただ彼女自身である”という孤高を感じさせた。その横顔を見るたび、私の胸の奥に小さく氷の棘が刺さる。私では、彼女の孤独を救えない。

 

貴族の女ならば、重苦しく空虚な絹のドレスに身を包んで、しどけなく長椅子に凭れ掛かっているものだと思っていた。退屈が目元を曇らせ鬱屈が口元の歪んだ皺になる。そういうものだと。冬の青白い冷気の下、細い手で剣を高く捧げ持つような女がいるはずはなかった。走る剣の切っ先が曇天の雲を切り裂いて光る。身軽な剣捌きとは裏腹に、伝わる刀身の振動は重い。俺の剣が脇腹をかすめても避けもしなかった。届いた、と思う瞬間に右手に刃先が当たる感触が走った。瞬間、体中が総毛立ち、次に神経の痺れと痛みが襲う。姿勢を保とうとした足にも衝撃が来る。刺される、と怯んだ身体がバランスを崩して、地面に叩きつけられた。身体の熱とは別に全身に感じる寒気は確かに殺気を感じたからだった。氷の海に沈められたように、冷たい。俺を見下ろす女の顔。重い雲に隠れた逆光に浮かび上がる顔立ちより、俺に近づくその手が恐ろしかった。蝋のように鈍く光り、あまりにも、白い。この手に負けたのだと思った。その手も、唇も、熱いと知ったのはずっと後のことだった。儚い力で抗っていた、あの手が。

 

金色の絹の束が結い上げられ、日頃硬く重い織物の襟に隠れているうなじが覗く。高く結ばれた毛先の緩やかな線が、かろうじて普段の彼女の揺れる髪の動きを思わせた。それ以外は・・まったく別の女だった。月白の絹地に瑠璃色の縫い取り、金のふち飾り、高い腰の位置から揺れるローブの曲線。夜の暗がりと蝋燭の灯りの下で、床に影が揺らめく。彼女が夜露を含んだ薔薇の香りを残して、俺の横をすり抜け馬車へと向かう、その後ろ姿。振り返らず真っ直ぐにその先にいるであろう、誰かの元へと急ぐ姿が、寝付けない冷たい床に入り、眼を固く閉じても何度でもよみがえった。知られぬよう伏せた目線、息遣いさえ密やかになり、サテンの靴の音さえ立てずに、彼女は踊ったのだろう。賛美の視線を一身に受けながら、彼女が見ているのは、感じているのはただひとりの。
それは俺ではなかった、ろうたけて白い腕を取り腰を抱き寄せるのも、俯いた彼女の睫に何処かで確かに見た面影にいぶかしんで見つめるのも。俺ではない。咲き誇る梨花の如き女は、水に映る月ほどに遠いのだ。

 

誘惑を知らない彼女が、視線を誘い魅入らせる。清冽に閉ざされた魅力が、男を眩惑させる。うなじの、頬の線の、鼻梁の、手の甲の、指先の、蝋より白く青天の月より冷たく白鷺のついばむ雹より熱い、その女は。

紗の帳の下でひとり眠る。男たちの煩悶を知らず、自身の哀しみを胸に抱いたまま、眠り続ける。

 

END